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  <title>余白</title>
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  <description>文学、音楽、現代思想を美味しく頂く</description>
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    <title>松本人志の映画について (2)</title>
    <description>
    <![CDATA[@aag9393: 要となるギャグが悉く「不気味なもの」であるのも松本映画の特徴と言えるかな。『R100』ではSM嬢に蹴られたりした後の顔がぽわーんと発光して至福の顔になる場面。『しんぼる』でなら松本演じる主人公がスイッチを押すとめちゃ弱いルチャリブレレスラーの首が伸びて、<br />
<br />
@aag9393: 敵味方関係なくノックアウトしてしまう場面。どちらもCG技術なくしては作れないギャグだが、どちらも極めて「不気味」なんだな。いわゆるライブのコントでは再現できないギャグであって、だから『ガキの使い』や『ごっつええ感じ』の笑いを期待していたファンはがっかりしたのかもね。<br />
<br />
@aag9393: ぼくはめちゃ笑ったけどね。<br />
<br />
@aag9393: あとライムスター宇多丸の映画批評に特徴的だけど、監督の人生観や世界観といったものを映画に持ち込むのを嫌がる人が多いなあ、と。確かに小津安二郎や黒沢のような映像作家の時代は終わってるとは思うけど、だからといってやっちゃダメなわけじゃない。<br />
<br />
@aag9393: やれ独りよがりだの、独我論的だの言って批判するけど、そうかなあ？映画は作家ないしは監督の独占物じゃない、てのはそう思うけど、ストーリー含めてカット割その他をほぼ合議制 (？) またはマーケットリサーチに基づいて作るようなハリウッド映画が資本で圧倒してるだけじゃん。<br />
<br />
@aag9393: 自覚がある、ないに関わらず、社会全体に浸透しているニヒリズムや個々人の存在の根っこに必ずあるニヒリズムを「見ない」ことにして、または否認することで映画を含めたエンターテインメントが成り立っている、と言うのならそれでもいい。松本人志はその掟を破って卑怯だ、ということにもなる。<br />
<br />
@aag9393: そういった暗黙の了解の上で「伝わる」小説を、映画を、音楽を作り出し、批評はただそういった作品のみを評価すべきだ、というのであれば、勝手にそうやってればいいけど、ぼくは降りる。熱血や親子愛を松本人志が描けるわけないじゃん。<br />
<br />
@aag9393: みんながみんな自分の存在の核にあるオウム的なものを直視して生きていかなければいけない、と言いたいわけじゃない。滑稽でおぞましいのがオウム的なニヒリズムの特徴なんでね、できればそんなんじゃなくてスマートで爽やかに生きていきたい、てのが本音でしょ？そりゃそうだよ。<br />
<br />
@aag9393: ビックリするくらい『大日本人』が面白くなかったんで舐めてましたわ。もう一回見直さないと。幼稚さ、ギャグのつまらなさ、ストーリーのつながりの悪さ、それらがすなわちオウムを生む戦後日本と日本人のニヒリスティックな表現だと考えれば納得できる。意識的に松本がそうしたとは思わないが、<br />
<br />
@aag9393: 松本の笑いの本質がニヒリズムにあるというぼくの仮説が正しければ、けっこう強烈なメッセージを発していると言える。]]>
    </description>
    <category>映画評</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%A9%95/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%BF%97%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%20-2-</link>
    <pubDate>Sat, 06 Dec 2014 04:46:15 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>松本人志の映画について</title>
    <description>
    <![CDATA[ちょっと考えがまとまってきたので、私のツイートを時系列に並べておく。<br />
<br />
ライムスター宇多丸の映画レヴューが小気味いい。松本人志と品川ヒロシの映画を酷評しまくり（笑）。言ってることほぼ正しい。<br />
<br />
あれ？意外と松本人志の『R100』面白かったぞ。ストーリー展開にはそりゃ無理あるし、メタレベルで作品をわざわざ酷評して見せたりしてあざといと言えば確かにそうだが、従来の映画とも純然たるコントとも言えない独自の世界があるように思ったけどな。<br />
<br />
ちょっと軌道修正。もう一回ライムスター宇多丸の映画評を聴いてみよう。<br />
<br />
『R100』<div>via McTube for YouTube.</div><div>https://www.youtube.com/watch?v=0RZW3CoFVDw</div>『しんぼる』<div>via McTube for YouTube.</div><div>https://www.youtube.com/watch?v=UhlM_00kEdQ<br />
<br />
メタレベルのシーンを取り込み、そこで当の映画が100歳の名も知れぬ老監督の作品だと仄めかすことで松本は作品に対する批評を狡猾に回避している、と言うけど、そうかなあ。そうは感じなかったな。<br />
<br />
松本人志の映画はわざわざ映画館にまで観に行こうとは思わんけど、言われるほど酷くもない。スーザン・ソンタグが日本のゴジラ映画を称して使った「キャンプ」てのが松本作品には当てはまるように思う。深みを求めない表層的な違和感。<br />
<br />
松本人志監督『シンボル』視聴了。悪くはないんじゃないこれも？<br />
<br />
んー、「神」をあまりに無造作に扱ってる、て批判されてるけど、松本にとっては宗教含めて様々な現実もパロディーの対象に過ぎないんじゃないかな。敬虔なクリスチャンがそれを批判するんだったらそれはそれで分かるけどね。<br />
<br />
密室で脱出しようにも脱出できず、でも様々なモノは与えられるという設定はドリフ的でもあり、ベケット的でもある。ソンタグが「キャンプ」を論じた小論とベケット論とアルトー論が同じ論集に収められていたことは示唆的かも。<br />
<br />
スーザン・ソンタグ『反解釈』<a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3/dp/4480082522/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1417511169&amp;sr=1-1&amp;keywords=%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0+%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88">http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3/dp/4480082522/ref=sr_1_1?s=books&amp;ie=UTF8&amp;qid=1417511169&amp;sr=1-1&amp;keywords=%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0+%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88</a><br />
<br />
ソンタグの美学批評は古いっちゃあ古いな、もはや。世代というか、ぼくにとっても記憶にある初めての映画は『ゴジラ対キングギドラ』だったと思う。父親に連れていってもらった。でもこの映画体験は大きいと思うよ、ぼくや松本の世代にとって。<br />
<br />
松本人志も観てたに違いないゴジラ映画やウルトラセブンの特徴って(大人から見れば) 滑稽な誇大妄想的な世界観だと思う。ソンタグはその特徴を「キャンプ」と名付けた。で、ぼくはこの誇大妄想的な世界の根底に現実世界に対するニヒリズムが横たわっていたと思うんだよね。<br />
<br />
ニヒリズムって何？て問われたら、絶対的な価値の喪失と答えたいんだけど、それは基本的にはニーチェ以降の西欧の状況なわけ。ベケットやアルトーの演劇はまさにその価値の喪失を問うものだった。日本の場合はちょっと違って諸行無常の感覚、それも仏教的というよりも「空っぽ」に近い感覚です。<br />
<br />
それも一種のニヒリズムと呼べるならそれこそゴジラ映画や松本人志の映画に流れているものであり、ぼくの中にも脈々と流れているものだと断言できる。必ずしもこのニヒリズムは悲観的な暗さを画面にも、人生にもたらさない。ライムスター宇多丸は浅薄な歴史観て松本を批判するけど、<br />
<br />
歴史はすでに止まってるんですよ、感覚的には。でもその歴史の終わりに「終わり」はない。この感覚はどん詰まりではあるけど、歴史からの解放でもあってね。だから乾いた笑いは可能なんです。ライムスターが批判する『しんぼる』での松本によるイエス・キリストへの擬態もね、<br />
<br />
どちらかと言うと麻原彰晃を彷彿とさせるチープさであってね、だからこそやっぱり深刻な面はある。イエスというより麻原ね。<br />
<br />
松本信者と思われるのは困るのだが、オウム事件が松本人志という芸人というより人間にさえも傷跡を残していること、自分の中の麻原的なものを表現しつつ、それを陳腐に相対化することでギリギリ批評たりえていること、この点は評価できると思う。<br />
<br />
オウム的なもの、または麻原的なものってニヒリズムの超克だとおもってて、松本人志の「笑い」はニヒリズムを乗り越えることなんて無理なんだって、て言ってるような気がする。積極的でも明るい笑いでもなく、どちらかと言うと諦念に近い笑いだけど、でも笑って生きていくしかないでしょ。</div>]]>
    </description>
    <category>書評</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E6%9B%B8%E8%A9%95/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%BF%97%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6</link>
    <pubDate>Tue, 02 Dec 2014 08:54:59 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>『言葉なき行為-1』について</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="font-size: 1.5em;">『言葉なき行為-1』('Act Without Words-1')<br />
<br />
</span><div><div>動画はここ&darr;<br />
<a href="http://youtu.be/Qb_eMMqUjTA">http://youtu.be/Qb_eMMqUjTA<br />
<br />
</a></div><div></div><div>1958年初演の1幕ものの劇。作者によって「一人の役者のためのパントマイム」と戯曲に副題が付されているからして、チャップリンやバスター・キートンなどの喜劇役者を配役することを念頭に書かれたものと思われる。<br />
<br />
</div><div></div><div>作者はサミュエル・ベケット。アイルランド出身でありながら人生の多くをフランスで過ごす。劇作家として最も知られているが、劇作以外にも小説を多数書いており、作風は演劇、小説ともに「不条理」を特徴とする。文学史的には「不条理演劇」("Theatre of Absurd") の中心人物と目されている。<br />
<br />
</div><div></div><div>ちなみに世紀の喜劇役者キートンとは自身が脚本、監督した『映画』('Film') にてコラボしていて、いかにベケットの作品が喜劇と相性がいいかを物語っていて興味深い。特に『ゴドーを待ちながら』という作品は日本でも多くの劇団やコメディアンが上演しているほどである。<br />
<br />
</div><div></div><div>さて『言葉なき行為1』であるが、以下の三つの層の複合体としてぼくは理解している。<br />
<br />
</div><div>1. ドリフ的なコントの層。「不条理さ」を楽しむレベルであり、エンタテインメントとして消費できる。<br />
<br />
</div><div>2. 作品の意味の層。主人公のドタバタを人生の寓意だと捉える場合、そこに人生哲学を読み取ることができる。ニヒリズム。<br />
<br />
</div><div>3. 「演劇」とは何かを問う層。俳優と劇作家、演出家の権力関係の寓意。力の政治学。<br />
<br />
</div><div></div><div>ベケットの演劇全般に言いえることは彼が演劇という表現形式にきわめて自意識的なことであり、舞台で繰り広げられるストーリーとは別に、いやそれと同時に「演劇」そのものが常にテーマになっている。したがって3つめの層に最もベケットらしさがある、とぼくは考える。ただし、上の3つの層が絡み合って始めてベケットの演劇は面白く、かつ深遠なものとして受容されているはずである。<br />
<br />
</div><div></div><div>いや、聴衆としてはドリフの層だけを楽しむのも間違いではない。でもそれではベケット劇の魅力が半減してしまうように思う。以下それぞれの層をもう少し詳しく解説してみよう。<br />
<br />
</div><div></div><div>1. ドリフ風のコントの層。最もベケットの喜劇性が発揮されている層であることは言うまでもない。中天から鋏が降りてくるところなど「志村、後ろ後ろ！」と主人公の俳優に声をかけたくなる。箱を積んで転ぶところなどはチャップリンのパントマイムを思わせもする。<br />
<br />
</div><div></div><div>2. 作品の意味の層。ホイッスルを誰が吹いてるのか、なぜこの主人公は砂漠から逃げ出せないのか、そもそもなぜ主人公は砂漠と思しき場所にいるのか、そして最後になぜ鋏は渡すのに「水」と書かれたボトルのみは主人公に与えないのだろうか、こういった疑問に答えるには、我々人間の生活と生存が究極的には「神」によって握られている、と考えるのがもっとも合理的だろう。ただ決定的なのは砂漠で生き延びるのに必須な水のみが与えられないことである。<br />
<br />
</div><div></div><div>ホイッスルと様々な道具に翻弄されたあげく主人公は水のボトルを手に入れるのを最後には諦めてしまう。その諦めた瞬間に水のボトルが主人公の目に前まで初めて降ろされる。しかし男は目の前にぶら下がっている「水」と書かれたボトルをぼんやり眺めるばかりである。そうなると、人生は諦めが肝心だ、というニヒリスティックな人生哲学を読み取るか、人間は無力だとはたまた悲観論に陥るかのどちらかだろう。<br />
<br />
ところで主人公の男はついに縄梯子を木の幹に引っ掛けて首を吊ろうとするが、幹がダラーンとなって失敗する。つまり生きるも死ぬも人間の意のままにはならない。<br />
<br />
</div><div></div><div>3. 俳優と劇作家、演出家の関係。舞台の裏方さんがホイッスルを吹いたり、縄梯子を垂らしたりしているのは明白ではあるが、そうさせているのは劇作家＝演出家のベケットであるから、主人公の男の生存を握っている「神」とは作家＝演出家のことでもある、と言える。少なくともそう理解するように促されている。舞台の世界と舞台を成立させている現実の世界の垣根が壊されているわけである。この見地に立てば、俳優とは作家＝演出家の実験台であり、実験用のハツカネズミであることになる。<br />
<br />
</div><div></div><div>以上簡単に3つの層を分けて解説してみたわけだが、この3層が絡みあっているのがこの『言葉なき行為-1』という演劇なのであるから、より一層精緻な分析が必要とされるに違いない。でも今回はここまで。</div><div style="font-size: 14px; font-weight: normal;"></div></div>]]>
    </description>
    <category>文学</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E6%96%87%E5%AD%A6/%E3%80%8E%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AA%E3%81%8D%E8%A1%8C%E7%82%BA-1%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6</link>
    <pubDate>Mon, 10 Nov 2014 10:48:12 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>オフィーリアのこと</title>
    <description>
    <![CDATA[<h3>『ハムレット』を読む （1）<span style="font-size: 1.17em;"></span></h3><div><span style="color: #000000;">オフィーリアはどちらかと言うとこの戯曲の中では端役なんだけど、それだけかわいそう感がけっこう強い。クローディアス王の廷臣筆頭で現在の総理大臣にあたる政務トップであったポローニアスの娘であり、終幕でハムレットと剣を交えるレアティーズとは兄妹の関係です。ハムレットとは恋仲であり、つつがなくハムレットが王位につけば妃として迎えられたんじゃないかなと思う。<br />
<br />
でも、「つつがなく」とはどうしても行かないんですよね。悲劇ですから（笑）。<br />
<br />
ポローニアスはクローディアス王の腹心であって、そのクローディアスは父であった先王ハムレットを毒殺して王位につき、よりによって先王の妻であるガートルードを妃にしちゃってるわけで、その息子や娘が悪い影響を受けないはずがない。でね、ネタバレになりますが、母親と話し合いをもっていたハムレットによって、盗み聞きをしていたオフィーリアの父親は殺されてしまう（第3幕4場）。どう考えてもハッピーなカップルに発展しようがない。兄であるレアティーズにも「身分の違い」を理由にハムレットとの関係に懐疑的であることを告げられたり、、、（第1幕3場）。<br />
<br />
で、オフィーリアのことが特にかわいそうに思うのはハムレットの偽装された狂気とは違って、彼女の狂気が本物であることにあるように思う。ハムレットへの愛はまっすぐで疑いようがなく、復讐に燃えるハムレットに袖にされたり、ハムレットの狂気の原因を探るためにクローディアス王に利用されたりと完全に翻弄された挙句、最愛の男による父親の殺害が起こります。狂うね、確かに。<br />
<br />
</span></div><div>以下に紹介するのはオフィーリアがほぼ自殺に等しい溺死を遂げる直前にクローディアスの宮廷に登場する場面（第4幕5場）。リュートといういう楽器を吹きながら舞台に登場し、歌を歌いまくる。その歌詞がかなり際どくて、かえって彼女の傷の深さが浮き彫りになる、そんな印象です。<br />
<br />
'Tomorrow is Saint Valentine's Day,<br />
&nbsp; &nbsp;All in the morning betime,<br />
And I a maid at your window,<br />
&nbsp; &nbsp;To be your Valentine.' &nbsp;(lines 47-50)<br />
<br />
「明日は聖バレンタイン・デイ、<br />
&nbsp; &nbsp;早くから午前中ずーっと、<br />
私、一人の乙女があなたの窓辺に隠れて、<br />
&nbsp; &nbsp;お嫁さんになれることを祈っています。」<br />
<br />
シェークスピアが生きていた時代のバレンタイン・デイは現在の、また我々日本人のものとは異なって、この日に初めて顔を合わす男女が結ばれるという伝説があったそうである。「乙女」と訳したのは "maid" に「処女」という含意があるからだが、それが次のスタンザ（連）で生きてくる。<br />
<br />
Then up he rose, and donned his clothes,<br />
&nbsp; &nbsp;And dupped the chamber door;<br />
Let in the maid, that out a maid<br />
&nbsp; &nbsp;Never departed more. &nbsp; (51-54)<br />
<br />
それから彼は起き上がって、服を着て、<br />
そして部屋の戸を開けたのです。<br />
その乙女を部屋に入れると、<br />
二度と乙女が部屋を出てくることはなかったのです。<br />
<br />
二度と「乙女」が部屋から出てくることはなかったというのは、この歌の女主人公が実際には男の部屋で処女を失った、ことを意味します。この歌の流れにハムレットとオフィーリアの関係への揶揄を認めることは難しくないな、と。議論はいろいろあるようですが、肉体関係はあったと考えるのが自然ではないかな。この後の連からは男一般への呪詛が下品な宣誓の言葉（oath）を伴って続きます。<br />
<br />
By Gis, and by Saint Charity,<br />
&nbsp; &nbsp;Alack, and fie for shame!<br />
Young men will do't, if they come to't,<br />
&nbsp; &nbsp;By Cock, they are to blame.<br />
<br />
Quoth she 'Before you tumbled me,<br />
&nbsp; &nbsp;You promised me to wed.'<br />
'So would I ha' done, by yonder sun,<br />
&nbsp; &nbsp;An thou hadst not come to my bed.' &nbsp; (57-64)<br />
<br />
イエス君と慈善様にかけて、<br />
あらまあ、なんてまあ恥知らず！<br />
若い男たちはやっちゃうのよね、女が来るとなると、<br />
ちんこ様にかけて、男たちこそ非難されるべきよ。<br />
<br />
彼女はそのときの会話を引用する、「私を仰向けに倒したとき、<br />
あなたは私に結婚の約束をしたわ。」<br />
「結婚してただろうね、お天道様にかけて、<br />
もしも君が僕のベッドにやって来たりしなかったらね。」<br />
<br />
まあ言い方は下品だけどやり逃げされた、ということになる。性的な表現に満ちてます。ハムレットのオフィーリアに対する愛情が本物だったかどうかは、テクストから読み取るほかはないのだけれど、それを疑がう証拠も見当たらない。「尼寺へ行け」("To a nunnery, go.") という有名なハムレットのオフィーリアへの言葉にしても、父王の弟（ハムレットにとっては叔父）とあっさり再婚した母親に対する不信感から出た言葉であって、むしろ修道院（"nunnery"）に隔離されていて欲しいという風に読める（第3幕1場）。結婚という聖なる制度への絶望と言ってもいいんじゃないかな。<br />
<br />
「聖なる」ていうのは大げさと言えばそうだが、王家の家族、婚姻関係というのは国民全体の規範であってね、近親相姦というのはやっぱりまずい。『ハムレット』の舞台設定はルネッサンス期のデンマークであり、現代日本における天皇家と比較するのは無理があるけど、当時の絶対王政における王と王家の国民一人一人への影響は物理的にも、心理的にも大であったことは想像できる。そういうわけでオフィーリアという一人の女性の立場に立てばやはり理不尽で、可哀想な状況だと思う。<br />
<br />
どちらにしてもオフィーリアのような貴族の子女が人前で歌うような歌ではないし、まして王や王妃の前で歌うとなるとその精神状況はそうとう深刻と言わざるをえないね。<br />
<br />
＊底本として使ったのは Oxford 版で、四つ折り本第2刷（1604-5に出版）を最も信頼して編集していることを特徴としています。『ハムレット』も他の作品も一つじゃないんですよね。その辺はまた改めて。</div>]]>
    </description>
    <category>文学</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E6%96%87%E5%AD%A6/%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87</link>
    <pubDate>Sun, 02 Nov 2014 13:57:24 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>キェルケゴールの『不安の概念』を読む (1)</title>
    <description>
    <![CDATA[「緒論」<br />
著者がキェルケゴールであることは論を俟たないにしても、この論考において「ヴィギリウス・ハウフニエンシス」という著者名を用いてるところは注意を要する。キェルケゴールの重要な著作のほとんどは偽名で出版されたものなのであるが、「ヴィギリウス・ハウフニエンシス」とはラテン語で「コペンハーゲンの夜警番」くらいの意味らしい。<br />
<br />
「不安」という暗い闇を見張る者としてのキェルケゴールの姿を彷彿とさせる。<br />
<br />
「原罪という教義学上の問題を指し示す心理学的=道標としてのひとすじの研究」というのが副題についてるところから全体を予想するのは可能ではあるが「原罪」という言葉で躓きそうになるのを隠すつもりはない。だってキリスト教徒じゃないんだもん、というぼくを含めた読者の感想は正直でよいと思う。ただしここは信仰の問題じゃなしに思想上のことと割り切ったほうがいい。キェルケゴールは確かに神学部の卒業者であるし、生活の安定のためにも牧師として何処かの地方に赴任する準備は整っていた。<br />
<br />
彼の主著が偽名で出版されたことを思い出してほしい。牧師として書くのであれば実名でよかったはずなのである。偽名を名乗ってでも書きたい「やばい」ことがあったと考えるのが妥当である。それが彼の「新しい」哲学への野望であった。<br />
<br />
さて「緒論」であるが、当時の哲学界の大御所であるヘーゲルとその弟子たちに対する批判と神学部で教えられていた教義学に対する批判を中心に展開されていてかなり読みづらい。ヘーゲル論理学にとって「現実性」は思惟できないものであり、また教義学にとって「信仰」が「直接的なもの」（それ以上のなんらの規定をももたぬところの）であるならば、人が信仰にとどまることはおよそ不可能なことだと言う。<br />
<br />
「直接的なるもの（それ以上なんらの規定をももたぬところの）は、あたかも自分の名前を呼ばれたちょうどその瞬間に我にかえる夢遊病者のように、それと名ざされるすぐその瞬間に止揚されるのであってみれば、誰が一体そんなもののもとにたちどまっていようなどと思いつくことであろうか！」（14）<br />
<br />
「現実性」にしても「信仰」にしてもそれらがそれぞれの学問内で「直接的なるもの」と名指しされてしまうやいなや理解できないものとなり、信用たるものではなくなってしまう。なぜなら言葉によって「媒介」されるやいなや「直接的なもの」は止揚される、つまりは乗り越えられてしまうからだ。ここでキェルケゴールは宿敵ヘーゲルの「止揚」（アウフヘーブング）をうまく反転させてその矛盾を突く。<br />
<br />
つまり「直接的なもの」は実在しない。いや存在できない。<br />
<br />
「結論」を先取りするとキェルケゴールは現実性ではなく「可能性」の中にこそ人間存在の根源を見据えていて、信仰の問題も「可能性」の奥底に横たわるものとされる。同様に信仰の問題に付随する「罪」の概念も倫理学では扱えないものとされている。<br />
<br />
キェルケゴールにとって当時の学問は客観至上主義であって、だからこそ論理学にとっては「現実」が捉えられないのであり、教義学には「信仰」が分らず、倫理学には「罪」を概念化できないのである。<br />
<br />
キェルケゴールはソクラテスの対話に「主体化」の契機を見る。<br />
<br />
「もともとソクラテスがソフィストたちについて、彼らは語ることはできても対話をすることができないといって難じたことの意味は、次の点に存するのである、ー彼らは何事についても多くを語ることができたが、主体化の契機を欠いていたということ。ところでこの主体化ということこそ、ほかならぬ対話の秘密なのである。」（24）<br />
<br />
したがってキェルケゴールは客観的な体系の中にではなく主体の中にある主観的なもの、すなわち「不安」という人間に根本的に見える気分を分析することで「現実」や「信仰」や「罪」に肉薄しようと努めるのである。だから心理学が召喚されるのだ。<br />
<br />
「ひとは心理学を主観的精神の学と名づけた。だが少しくその主観的精神の後を追うてみるならば、心理学が罪の問題に到達するや否や、主観的精神の学は直ちに絶対的精神の学に転換せねばならぬ所以が、知られるであろう。さてそこに教義学が存するのである。」（38）<br />
<br />
何故にまた議論の最後になって教義学にボールを投げ返す必要があるのかははっきりしないし、よく分らない、とぼく自身白状しておく。]]>
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    <category>研究ノート</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88/%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%80%8E%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%81%AE%E6%A6%82%E5%BF%B5%E3%80%8F%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%20-1-</link>
    <pubDate>Fri, 02 May 2014 08:44:09 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>ベッドルーム</title>
    <description>
    <![CDATA[カルチャー (bedroom culture)。<br />
<br />
あんまり聞き覚えのない言葉だったけど、とくに少女がどのようにポップスターやその音楽を消費しているか、を指す言葉のようである。つまり自分の部屋の壁一面をお気に入りのポップアイドルのポスターで飾ったり、彼・彼女の音楽を聴いたりする空間に固有な文化ということだ。<br />
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It is also apparent that young girls use popular music and its associated images to negotiate their gendered identities within micro-worlds, and that rather than being cultural dupes, music is used to explore and challenge where they 'fit' in terms of other social forces.&nbsp; ・・・ Rather than being simply a fun-making activity, pop music, dancing and the exploration of images 'is much more about an expresion of cultural identity which, in its very embodiment, represents an attempt to make sense of &quot;the real me&quot; of the emerging self'.&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; (Baker in Whiteley, 25)<br />
<br />
若い女の子たちが自らのジェンダー化されたアイデンティティーを小世界の中で定めるためにポピュラー音楽とそれに関連したイメージを利用していることも明らかであり、文化産業の手先であるよりはむしろ音楽は、彼女たちが他の社会的集団に対してどういう位置を占めたらよいのかを探索し、吟味するために使われる。・・・単に楽しむ活動であるよりはむしろポップミュージック、ダンス、それにイメージの探求は（娯楽より）はるかに文化的なアイデンティティーの表現に係わっており、その表現は、まさにその具体化において、生まれつつある自我の「本当の私」を理解する試みを意味している。<br />
<br />
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<br />
やたら難しく書いてあるけど、要は少女が家族ともクラスメートとも違う一つの個人として自分（自我）を発見する時、重要な働きをするのがポップスターであり、その音楽であり、メディアに登場するイメージなのだということ。この自己発見の過程が圧倒的に起こる場所が自分の部屋、ベッドルームだということらしい。社会とも隔絶され、家族とも比較的に隔絶された自分の部屋でさまざまなファンタジー（妄想ともいう）がポップスターをきっかけとして跳梁する。<br />
<br />
まあ男の子にも適用できるとは思うけど、男の子は友人と遊ぶ時間が多いからあまりベッドルームは重要な場所ではないのかもしれない。<br />
<br />
でもどうかな？私の場合は部屋にはロックスターのピンナップや音楽雑誌からの写真の切り抜きが飾られていたことを告白しておく。ジミー・ページやThe Clashのジョー・ストラマーとかね。<br />
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ロックイデオロギーのど真ん中で私は自らの「自我」を形成したわけであろうか？<br />
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    <category>研究ノート</category>
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    <pubDate>Thu, 07 Oct 2010 10:46:38 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>少女とポピュラーミュージック</title>
    <description>
    <![CDATA[最近復活しているSPEEDは何歳のデビューだったかな？13歳とか14歳でしょ、きっと。30代のオヤジにもけっこうファンを自称する人たちいたけど、基本熱狂的なファンはやはり子供たちだったわけでしょ。5歳くらいから15歳くらいか？<br />
<br />
何が言いたいかというと、子供、とくに少女というのはポピュラー音楽に限った話ではないけれども、とくに音楽業界では「売り物」になる、つまりパフォーマーの商品価値が高いのと、ＣＤやコンサートに行くファンという消費者層としてばかにならない、ということだろう。まあ、親からのお小遣いで写真集買ったりするんだけど、十分すぎる商売になる。<br />
<br />
それは何故か、というのが問題なんだけど、子供と性現象（セクシャリティー）との特殊な関係にある、というのが本当なんだろう。<br />
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Not least, they do not know the difference between good and evil, only between nice and nasty. S/he is good if s/he does not do anything bad. The ideal of children thus focuses on their innocence, their playfullness, their direct access to the world of&nbsp; make-believe which, in turn, conncets them to the black and white ethical world of fable and fairytale. It is, however, this conceptualisation of innocence that underpins the contemporary paradox of both containing child sexuality and accepting its exploitation through, for example, the media.　　　　(Sheila Whiteley, <em>Too Much Too Young</em>, 23)<br />
<br />
とりわけ彼らは善と悪の違いを知らず、ただいい感じというのと気分が悪いの違いしか知らない。彼女/彼は何も悪いことしないからよい子だ。このように子供という理想は彼らの無垢さや無邪気さ、彼らが空想の世界に直接接近できることに焦点を当てる。その空想の世界が今度は彼らを作り話とお伽話の黒白がはっきりした倫理世界に結びつけるのである。しかし子供の性現象を封じ込めながら、例えばメディアによってそれが搾取されるという現代のパラドックスを支えているのはまさにこの無垢の概念化なのである。<br />
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<br />
子供は無垢であるが、大人とは違ってまだ十分には「人間」ではないのであり、性的にはサド/マゾヒズムを含む大人の規範を逸脱した存在として理解される。無垢と性的な逸脱、この二つが子供のポップスターの隠れた魅力であり、音楽消費市場で価値がある、つまり売れるのである。<br />
<br />
なんでこんなこと考えてるかというと、シネイド・オコナーのことを考えているからだが、シネイドの場合は19歳でデビューし、しかもシングルが売れ出したころには子供を身ごもっている未婚の母親だったからである。歌詞も性的に挑発的であった。<br />
<br />
やはり彼女が売れた重要な条件として子供の、いや思春期の少女の性現象（セクシャリティー）へのファンと音楽業界の関心があったことは否定できないと思う。<br />
<br />]]>
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    <category>研究ノート</category>
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    <pubDate>Wed, 06 Oct 2010 14:39:02 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>これは</title>
    <description>
    <![CDATA[別に音楽文化に限った話ではないけど、ライブハウスを舞台に「通過儀礼」が広く一般化したことは驚くには至らない。<br />
<br />
通過儀礼の宗教的な起源については誰でも知ってるし、ライブハウスで、いやもっと大きな武道館などでジャニーズのグループに熱狂的な声援を送っている若者たちが「信者」扱いされていることもよく知られている。尾崎豊とそのファンとの関係は教祖と信者のそれに近い。<br />
<br />
でもそれを「宗教」とは正確には言わない。あくまでも比喩なのである。でも比喩とはいっても宗教の儀式が起源であることには変わりない。近代化が進めば進むほど公式の宗教は非合理なものとして抑圧、または克服されていくのだが、実はその裏側で我々の日常生活の中に宗教的なコミュニケーションのあり方が定着している。<br />
<br />
一神教の西欧と多神教のアジア、日本の近代化の過程は異なって当然だから、ライブハウスのあり方もおそらく少しは異なっているだろう。だけどほとんどの近代社会の制度やアイディアは西欧からやってきたわけだから、やっぱり大枠は変わらないはずだ。<br />
<br />
しかし俺、文章下手だな。簡単な言葉で読み手に伝わる文章を目指してはいるが、論文調の癖がある。何とかしたい。<br />
<br />]]>
    </description>
    <category>ポピュラー音楽</category>
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    <pubDate>Mon, 13 Sep 2010 02:20:15 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>儚い</title>
    <description>
    <![CDATA[からこそ、インディー・ロック、ギター・ポップは「美しかった」のである。<br />
<br />
子供と大人の中間にあって、家庭からも社会からも孤立している「若者」の音楽であったから「美しい」のだ。しかも「純粋さ」がとても痛々しく、悲しくもある。<br />
<br />
小さなライブハウスで彼らインディーバンドのライブを体験して、その「美しさ」に共感したとしても、所詮ライブは「通過儀礼」であり、子供が大人へと変貌するにつれて、その「美しさ」は錆び果てる。つまり宝石と思えたものが「ゴミ」になる。<br />
<br />
それは暗くて狭い空間に佇む観客だけではなく、華やかな舞台で演奏するパフォーマー達にさえ訪れる宿命だ。醜く老いぼれていくパフォーマーが儚い、だからこそ「美しかった」音楽を観客に届け続けることは難しい。観客たちも同時に歳をとっていくからだ。<br />
<br />
「美しくなくなった」かつての偶像を目の当たりにする時こそが厳しい現実に直面させられる瞬間である。だからその瞬間を経験した多くのインディー・ファンはライブハウスを去ってゆく。大人になるのだ。通過儀礼の終了である。<br />
<br />
大人の現実社会は、世界地図のどこにいるのかには関係なく、またキリスト教圏か仏教圏にも関係なく、プロテスタント倫理に裏打ちされた資本主義の世界である。現代の世界は「グローバルなもの」だからだ。すなわち、儚い「現在」にではなく不確かだが、だからこそ可能性の広がっている「未来」に投資する。プロテスタント倫理は未来の「幸福」を実現するために禁欲的であること、浪費しないこと、理性的であること、そしてなにより一生懸命労働することを我々に要求する。<br />
<br />
汗水たらして働いて得たお金、神経をすり減らして稼いだお金、は「神」からの贈り物であり、したがって富を築くことと信仰は両立する。労働はこの倫理にとって「善」だからである。これこそがアメリカが世界を席巻することになった思想である。そうはいっても人間性を踏みにじるような「金儲け主義」は間違っている。「神」の意には添わない。（マックス・ウェーバー『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を参照してくださいね。）<br />
<br />
以上、風邪気味元インディー野郎の独り言でした。<br />
これからもエッセイみたいなものを綴っていく予定です。<br />
宜しく。<br />
<br />
<br />]]>
    </description>
    <category>ポピュラー音楽</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E9%9F%B3%E6%A5%BD/%E5%84%9A%E3%81%84</link>
    <pubDate>Fri, 10 Sep 2010 23:41:18 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>ゴミの帝国</title>
    <description>
    <![CDATA[Wendy Fonarowが「あとがき」に書いて曰く、<br />
<br />
My trick has been indie's trick --- that music and emotional epiphanies matter. If popular music is not worthy of study, then it's because it is not worthy. It's not worthy because it is ephemeral. It doesn't last. It is our trash. You can't see it in a museum in two thousand years. It is dirt. Do we not live in a world where it does not matter what sort of music you like? Does it matter if artists make music independently or under corporate auspices, extravagantly or modestly? Will it help you get a job? Will it feed your family? To the outsider, the emotional epiphanies of the indie comunity are as insignificant as documenting fleeting trains as they speed by your platform.&nbsp;&nbsp; (p.249, <em>Empire of Dirt: The Aesthetics and Rituals of British Indie Music</em>, 2006)<br />
<br />
わざわざ訳さないけど、もし「ポピュラー音楽が研究するに値しないのなら、そうだったらそれはポピュラー音楽に価値がないからだ」と書いている。はたしてそうなのかというと、そう「あとがき」で書いているFonarowさん自身が２００ページを超えるこの研究書を書いているわけだから、答えは「研究に値する」である。でもそれが研究に値するのはポピュラー音楽が主張している「価値体系」が優れているからではなくて、その「価値体系」が一つの重要なイデオロギーとして社会全体の中で機能的に働いているからである。<br />
<br />
この本はイギリスのインディー・ロックについて書かれた本だが、かつて、今でも少し、インディーファンであった自分にとっては、けっこうキツイ分析であったように思う。研究として優れているのは間違いないけど、なんというか教訓のようなものをこの本から受け取った自分がある。「現実」を見ろ、と何度も言われたような気がする。インディー・ロックの「美しさ」はまやかし、トリックであり、十中八九「ゴミ」（&quot;dirt&quot;)である、と。<br />
<br />
タフな研究書である、この本は。<br />
<br />]]>
    </description>
    <category>ポピュラー音楽</category>
    <link>http://aag42740.blog.shinobi.jp/%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC%E9%9F%B3%E6%A5%BD/%E3%82%B4%E3%83%9F%E3%81%AE%E5%B8%9D%E5%9B%BD</link>
    <pubDate>Fri, 10 Sep 2010 04:17:52 GMT</pubDate>
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