01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今年のカルチュラル・タイフーンでも報告した北アイルランドの作家 Tara West の小説 Fodder 。そのタイトルの意味に対する注記。以下に主だった英語辞書から列挙してみる。
fodder n. (Oxford English Dictionary)
-
Food in general.
-
Food for cattle. Now in a more restricted sense: Dried food, as hay, straw, etc., for stall-feeding
-
Child, offspring
fodder n. (The American Heritage Dictionary)
- Feed for livestock, especially coarsely chopped hay or straw.
- Raw material, as for artistic creation.
- A consumable, often inferior item or resource that is in demand and usually abundant supply: romantic novels intended as fodder for the pulp fiction market.
fother [rhymes with "bother"] n. fodder (Concise Ulster Dictionary)
さてウエストの小説のタイトルにふさわしい意味はどれかというと正直難しい。どの定義にも当てはまりそうだからである。したがって翻訳不能(「フォダー」とするしかない)なのだ。私はこの小説を「パンク小説」と呼ぶことにしているが、それというのも北アイルランドで The Undertones と並ぶ伝説のパンクバンド、スティッフ・リットル・フィンガーズ(Stiff Little Fingers) がきっかけで書かれた小説であることは間違いないからである。したがって上記の定義でいくとアメリカン・ヘリテージの3)「消費可能な、しばしば劣った品物または資源」というのがまず該当する。パンクロックはその反体制的な姿勢(これは神話だ!)にもかかわらず大衆消費財(安全ピンその他)を利用することでそのスタイルを確立したからであり、音楽自体が消費文化であることを免れないからである。つまりウエストはパンク小説というか「パルプフィクション」を狙っているのである。
しかし一方でやはりアメリカン・ヘリテージの2)「原材料、例えば芸術的な創造に対する」も無視できない。この小説を「パルプフィクション」であると同時に「文学」と看做せるかどうかは議論の余地が残るところだが、私の文学研究経験からすればやはりこの小説は文学なのである。実際北アイルランドの大学でも文学の授業で採りあげられていると聞いている。また作家ウエストに「文学」への自負があることも疑えない。何故なら "fodder" は北アイルランドを代表する詩人シェイマス・ヒーニー(Seamus Heaney) の出世作『冬を生き抜く』(Wintering Out) の冒頭に置かれた作品だからである。ウエストの小説にもそれと窺わせるヒーニーへの言及がある。
I had a couple of volumes of Seamus Heaney and Martin Mooney — mostly nicked from No Alibis bookshop on Botanic, where they wouldn't let me in any more. (p.103)
マーティン・ムーニーはまだまだ若手の北アイルランド詩人であるが、どちらにしても小説の主人公「クッキー」はボタニックというベルファーストの地区にある本屋「言い訳なし」からヒーニーの詩集を盗んでいるのである。さてではそのヒーニー自身の作品「フォダー」を眺めてみよう。
万力で締められたような
足元にバラバラとこぼれて落ちた
まるであのパンや魚のように
いつまでも続くこんな長い夜には
『ユリシーズ』の冒頭(「テレマコス」)でスティーヴンの脳裏をよぎるオックスフォード大学の光景。スティーヴンが仮住まいしていたマーテロ塔(現在はジョイスタワーと呼ばれている)に、少しだけ居候しているオックスフォード大の卒業生でイギリス人のハインズという登場人物がいる。このイギリス人の寝言がうるさいというので、これまた居候のマリガンとスティーヴンが屋上で語り合っている場面である。「新入生いびり」というのは何処にでもあるらしい。今度うるさかったらこっぴどくオックスフォード式にいびってやればいい、と言うマリガン。マリガン自身もオックスフォードに暫くいたことがある故にスティーヴンは幾分「アイルランド人」としての誇りを傷つけられた気がするのである。侵略者たち・・・
Shouts from the open window startling evening in the quadrangle. A deaf gardener, aproned, masked with Matthew Arnold's face, pushes his mower on the sombre lawn watching narrowly the dancing motes of grasshalms.
To ourselves .... new paganism .... omphalos. (Ulysses, p.7)
開いた窓から漏れて来る叫び声が中庭に下りた夕暮れを驚嘆させる。エプロンをして、マシュー・アーノルドのお面を被った耳の聞こえない庭師が、薄暗くなった芝生の上で草刈り機を押す、芝の茎の揺れる微塵を細い目をして眺めながら。
我々の手に・・・新しい異教主義・・・「オンファロス」。
まあキャンパス内の寮を想像すればいいんだけど、イギリスの寮生活というとかつては全寮制。ルパート・エヴェレットが主演したイギリス映画 Another Country を思い起こせば、状況は分かりやすいと思う(古いかな?)。やはりこの映画にも濃厚、というか「売り」だったというか、同性愛の雰囲気が感じられる。寮の規律を守るために上級生が規律を乱した下級生のパンツを脱がして、鞭打つとか・・・。『アナザー・カントリー』では同性愛とマルクス主義に目覚めた美青年、というのが出てきた覚えがある。地元のダブリン大学出身のスティーヴンには、侵略者イギリス人が男の同性愛とアーノルドの「新らしい異教主義」等のスローガンと共にイメージされているわけである。「我々の手に」はアイルランドのナショナリスト党Sinn Feinが、また「オンファロス」はギリシャ語で「臍」の意で、これは「マーテロ塔を世界の中心とす」くらいの意味。ホメロスの『オディッセイア』への言及である。このようにイギリスへの劣等感、敵意、アイルランド人としての自負、古代ギリシャへの憧れ、などがスティーヴンの意識の中でない交ぜになっている、と読める。
James Joyce, Ulysses (New York: Vintage, 1986)
Chap. 1: Emancipation (「解放」), Liquid Modernity
学術論文英語を読むことの困難を久しぶりに感じた。この程度は難しい方ではないけれども、前提となっている社会学用語が分からない私にはかなり苦痛である。特にアドルノを中心にして「批判理論」(critical theory) を吟味する段に至って、英語のレトリックが凄まじい。ただ細かい部分はよく分からないながらも言いたいことは単純だと思った。
現代の社会はアドルノの時代のもの、すなわち「公的な領域」が「全体主義」の姿をとって「私的な領域」を侵略しがちな時代とは異なり、逆に「私的な領域」が「公的な領域」を侵略している時代であるので、その間を媒介するような「集会所」("agora") が必要であり、行き過ぎた「個人」(individual) がもう一度「市民」(citizen) になることが必要である。
まあこんなところかな。あとは文学研究者として気になる点をピックアップ。
Other popular addresses for similar complaints have been the 'embourgeoisement' of the underdog (the substitution of 'having' for 'being', and 'being' for 'acting', as the uppermost values) and 'mass culture' (a collective brain-damage caused by a 'culture industry' planting a thirst for entertainment and amusement in the place which — as Matthew Arnold would say — should be occupied by 'the passion for sweetness and light and the passion for making them prevail'). (p. 19)
コンテクストとしては個人化の加速度的な浸透と、それに伴う「自由」の享受によって結果として持ち上がった「大衆」の政治的無能化(つまり衆愚化)を論じているところである。特に批評家の一つの反応としてマルクーゼが挙げられているが、「衆愚化」の原因として考えられてきたものの二つが社会的弱者(負け犬)の「ブルジョア化」と「大衆文化」("mass culture") なのである。要するに中産階層が基幹をなす大衆社会が悪い、という反応と、「大衆文化」が悪い、という反応があったということ。ここで気になるのはもちろんバウマンが「大衆文化」に対するエリート的な反応として英文学の重鎮アーノルドの言葉を引いていることである。曰く「甘美さと光への情熱と、それらを遍く世界に普及させようという情熱」である。バウマンは回顧的にこれらの議論を語っていて、このあとに続くアドルノの議論に繋げていこうという意図があったことは分かる。しかしまあアーノルドを悪者にして「文学」を用済みにしてしまうやり方、またアドルノを悪者にして「クラシック音楽」を用済みにするのも社会学者に典型的である。
アーノルドからの引用は社会学では慣用化しているようである(何故ならレファレンスが註にもないからである)。アーノルドは詩人であり、批評家であった。『文化と無秩序』においてアーノルドは文化の側にイギリスを、無秩序の側にアイルランドを躊躇なく分類するなどして、アイルランドにおいても評判がすこぶる悪い文学者である。真と善(「光」)、さらには美(「甘美さ」)こそが理性に適った文化の、したがって近代社会の土台であるべき、ということであろう。いわゆる啓蒙主義であるが、ジョイスが『ユリシーズ』の中でオックスフォード大学の構内で草刈りに興ずるアーノルドを描いていたことを思い出す。「草刈り」はイギリス人が好きなガーデニングへの揶揄であるが、それと同時に「秩序」としての「文化」への揶揄でもあろう。アイルランドは草がぼうぼうの荒地であると。
「大衆文化」と「高級文化」の区別に金泥することは止めたい。古すぎるからである。ただ対立こそ今はしてないと言えるけれども、それらは依然並立したままであり、そうでなければこれらを同時に語る言語、学問が存在していないだけなのである。
やっと新装オープン、旧ブログからのエントリーの移管はできません。
初回は研究ノートということで・・・。
Zygmunt Bauman, Liquid Modernity (London: Polity P, 2000)
Baumanは著名な社会学者であり、必ずしも私の専門からすれば読む必要のない本であるが、「流動化」の概念を自分のモノにしたいこと、グローバル化の有力な観方を知っておく必要から読み始めた。私が読んだことのある社会学の本といえば10年ほど前にイギリスで読まされたAnthony Giddens、Ulrich Beck、Scott Lash共著のReflexive Modernizationくらいであった。たしか向こうの修士論文でLashの文章を引用した記憶がある。私が在籍してたのが文学研究科であり、しかもカルスタ (cultural studies) とポスコロ (postcolonial studies) を短期間に都合よく勉強できるという、まあちょっと何でもありの環境でした。それにしてもGiddensやBeckの文章の面白くないことといったら、英文学プロパーの私にはつらいとしか言いようのないものでした。
さてBauman。まあ当時から名前くらいは知っていたが、私には関係ないかなとか思ってこれまで読みませんでした。今回読み始めて感じるのはやっぱ面白くないなー、である。まあこれ教科書的なものだから仕方ないというか、多分ケース・スタディーなどを聴いたり、読んだりすれば面白いはず、と思うのである。まあそういうわけで、半分以上「お勉強」ということにして、文学者プロパーならではの「引っ掛かり」をノートにしたためようと云う次第。
Forward: On Being Light and Liquid (序、軽いことと液状であること)
「流動化」という日本語はBaumanの場合 "liquidation" ということになろうか。普通なら「液体化、液状化」という訳語が当てられるべきだろうが、どうだろう?さて私が「引っ掛かった」のは次の一節。
The contemporary global elite is shaped after the pattern of the old-style 'absentee landlords'. It can rule without burdening itself with the chores of administration, management, welfare concerns, or, for that matter, with the mission of 'bringing light', 'reforming the ways', morally uplifting, 'civilizing' and cultural crusades. (p.13)
Baumanはここでグローバル化時代のエリートの在り方を述べているのであるが、そこで近代のそれまでのエリートの在り方との対比を際立たせるために言及されているのが「不在地主」('absentee landlord')なのである。「不在地主」は特に16世紀、17世紀のアイルランドにおいて歴史的な役割を果たしたことをBaumanが知って書いているかは分からないが、「不在地主」とくればやはりアイルランドのことを忘れるわけにはいかない。イギリス生まれの小説家Maria Edgeworth (1767-1849) は父方の祖先がアイルランドに広大な土地を持っていたことから、14歳以降はそこに定住したそうである。したがって彼女の小説のほとんどはアイルランドで書かれたのである。父方の祖先はその土地を16世紀か17世紀にイングランドの皇室から拝領したようであるから、それまではカトリックの人々の土地であったはずである。イングランドの皇室はイギリス国教会をアイルランドに根付かせるためにカトリックの地元民を冷遇したのである。私自身がEdgeworthの小説を読んだことがあるわけでないので心苦しいが、この前聞いた研究発表を聞く限りでは「不在地主」の家系を題材にした小説を得意としていたらしい。本人はイングランドなどの都会で生活し、アイルランドの土地を農民などに貸すなどして収益を得ていた社会階層がいたわけである。その土地の中心には広大な邸宅("Big House"と俗に呼ばれる)があって、時々帰ってきては広大な領地をそこから見回りに出掛けていたようである。私が興味があるのは、Baumanの一節にあるように、これらのエリートは「遠く」にいながら領地に絶対的な力を及ぼすシステムを確立していたことである。地元住人や土地の「管理」、「経営」、「福祉」等の「退屈な仕事」は現地人から選んだ使用人にほぼ任せるようになっていった。ただEdgeworthのような地主の中にはアイルランド住民の生活に干渉し、「光をもたらす」という啓蒙の使命と、地元人の「道徳の向上」を忘れることなく努めていたのである。それが18世紀後半から19世紀のこと。
さて以上のことから私が注意しておきたいことはイギリスにおける小説の勃興がEdgeworthのような「不在地主」で比較的暇のあるエリートによっても担われていたこと、「文学」としての小説一般は「啓蒙」をその使命としていたこと、この二つの点である。「理性」を野蛮人のアイルランド・カトリック教徒に教え、根付かせること。これは議論の余地のあることではあるが、アイルランド文学を支えてきたのは歴史的にみればこれら「不在地主」を含む「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる階層の作家たちであった。
Baumanによれば現在のグローバル化時代におけるエリートは啓蒙思想なき「不在地主」のようなものであり、「管理」や「経営」さえも末端の個人に委ねているような階層の人たち、ということになる。「土地」はもっとも「流動化」に反する存在でもある。面倒なのはアイルランド文学においては現在でも「土地」が重要な要素であり続けていることだ。それがアングロ・アイリッシュ文学の伝統だからである。
さてそれでは「流動化」が進んだアイルランドに新しい「文学」が生まれる素地があるのかどうかだ。それが私の今の関心のあり方である。「流動化」をその本質とするような文学!!