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「緒論」
著者がキェルケゴールであることは論を俟たないにしても、この論考において「ヴィギリウス・ハウフニエンシス」という著者名を用いてるところは注意を要する。キェルケゴールの重要な著作のほとんどは偽名で出版されたものなのであるが、「ヴィギリウス・ハウフニエンシス」とはラテン語で「コペンハーゲンの夜警番」くらいの意味らしい。

「不安」という暗い闇を見張る者としてのキェルケゴールの姿を彷彿とさせる。

「原罪という教義学上の問題を指し示す心理学的=道標としてのひとすじの研究」というのが副題についてるところから全体を予想するのは可能ではあるが「原罪」という言葉で躓きそうになるのを隠すつもりはない。だってキリスト教徒じゃないんだもん、というぼくを含めた読者の感想は正直でよいと思う。ただしここは信仰の問題じゃなしに思想上のことと割り切ったほうがいい。キェルケゴールは確かに神学部の卒業者であるし、生活の安定のためにも牧師として何処かの地方に赴任する準備は整っていた。

彼の主著が偽名で出版されたことを思い出してほしい。牧師として書くのであれば実名でよかったはずなのである。偽名を名乗ってでも書きたい「やばい」ことがあったと考えるのが妥当である。それが彼の「新しい」哲学への野望であった。

さて「緒論」であるが、当時の哲学界の大御所であるヘーゲルとその弟子たちに対する批判と神学部で教えられていた教義学に対する批判を中心に展開されていてかなり読みづらい。ヘーゲル論理学にとって「現実性」は思惟できないものであり、また教義学にとって「信仰」が「直接的なもの」(それ以上のなんらの規定をももたぬところの)であるならば、人が信仰にとどまることはおよそ不可能なことだと言う。

「直接的なるもの(それ以上なんらの規定をももたぬところの)は、あたかも自分の名前を呼ばれたちょうどその瞬間に我にかえる夢遊病者のように、それと名ざされるすぐその瞬間に止揚されるのであってみれば、誰が一体そんなもののもとにたちどまっていようなどと思いつくことであろうか!」(14)

「現実性」にしても「信仰」にしてもそれらがそれぞれの学問内で「直接的なるもの」と名指しされてしまうやいなや理解できないものとなり、信用たるものではなくなってしまう。なぜなら言葉によって「媒介」されるやいなや「直接的なもの」は止揚される、つまりは乗り越えられてしまうからだ。ここでキェルケゴールは宿敵ヘーゲルの「止揚」(アウフヘーブング)をうまく反転させてその矛盾を突く。

つまり「直接的なもの」は実在しない。いや存在できない。

「結論」を先取りするとキェルケゴールは現実性ではなく「可能性」の中にこそ人間存在の根源を見据えていて、信仰の問題も「可能性」の奥底に横たわるものとされる。同様に信仰の問題に付随する「罪」の概念も倫理学では扱えないものとされている。

キェルケゴールにとって当時の学問は客観至上主義であって、だからこそ論理学にとっては「現実」が捉えられないのであり、教義学には「信仰」が分らず、倫理学には「罪」を概念化できないのである。

キェルケゴールはソクラテスの対話に「主体化」の契機を見る。

「もともとソクラテスがソフィストたちについて、彼らは語ることはできても対話をすることができないといって難じたことの意味は、次の点に存するのである、ー彼らは何事についても多くを語ることができたが、主体化の契機を欠いていたということ。ところでこの主体化ということこそ、ほかならぬ対話の秘密なのである。」(24)

したがってキェルケゴールは客観的な体系の中にではなく主体の中にある主観的なもの、すなわち「不安」という人間に根本的に見える気分を分析することで「現実」や「信仰」や「罪」に肉薄しようと努めるのである。だから心理学が召喚されるのだ。

「ひとは心理学を主観的精神の学と名づけた。だが少しくその主観的精神の後を追うてみるならば、心理学が罪の問題に到達するや否や、主観的精神の学は直ちに絶対的精神の学に転換せねばならぬ所以が、知られるであろう。さてそこに教義学が存するのである。」(38)

何故にまた議論の最後になって教義学にボールを投げ返す必要があるのかははっきりしないし、よく分らない、とぼく自身白状しておく。
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カルチャー (bedroom culture)。

あんまり聞き覚えのない言葉だったけど、とくに少女がどのようにポップスターやその音楽を消費しているか、を指す言葉のようである。つまり自分の部屋の壁一面をお気に入りのポップアイドルのポスターで飾ったり、彼・彼女の音楽を聴いたりする空間に固有な文化ということだ。

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It is also apparent that young girls use popular music and its associated images to negotiate their gendered identities within micro-worlds, and that rather than being cultural dupes, music is used to explore and challenge where they 'fit' in terms of other social forces.  ・・・ Rather than being simply a fun-making activity, pop music, dancing and the exploration of images 'is much more about an expresion of cultural identity which, in its very embodiment, represents an attempt to make sense of "the real me" of the emerging self'.     (Baker in Whiteley, 25)

若い女の子たちが自らのジェンダー化されたアイデンティティーを小世界の中で定めるためにポピュラー音楽とそれに関連したイメージを利用していることも明らかであり、文化産業の手先であるよりはむしろ音楽は、彼女たちが他の社会的集団に対してどういう位置を占めたらよいのかを探索し、吟味するために使われる。・・・単に楽しむ活動であるよりはむしろポップミュージック、ダンス、それにイメージの探求は(娯楽より)はるかに文化的なアイデンティティーの表現に係わっており、その表現は、まさにその具体化において、生まれつつある自我の「本当の私」を理解する試みを意味している。

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やたら難しく書いてあるけど、要は少女が家族ともクラスメートとも違う一つの個人として自分(自我)を発見する時、重要な働きをするのがポップスターであり、その音楽であり、メディアに登場するイメージなのだということ。この自己発見の過程が圧倒的に起こる場所が自分の部屋、ベッドルームだということらしい。社会とも隔絶され、家族とも比較的に隔絶された自分の部屋でさまざまなファンタジー(妄想ともいう)がポップスターをきっかけとして跳梁する。

まあ男の子にも適用できるとは思うけど、男の子は友人と遊ぶ時間が多いからあまりベッドルームは重要な場所ではないのかもしれない。

でもどうかな?私の場合は部屋にはロックスターのピンナップや音楽雑誌からの写真の切り抜きが飾られていたことを告白しておく。ジミー・ページやThe Clashのジョー・ストラマーとかね。

ロックイデオロギーのど真ん中で私は自らの「自我」を形成したわけであろうか?

最近復活しているSPEEDは何歳のデビューだったかな?13歳とか14歳でしょ、きっと。30代のオヤジにもけっこうファンを自称する人たちいたけど、基本熱狂的なファンはやはり子供たちだったわけでしょ。5歳くらいから15歳くらいか?

何が言いたいかというと、子供、とくに少女というのはポピュラー音楽に限った話ではないけれども、とくに音楽業界では「売り物」になる、つまりパフォーマーの商品価値が高いのと、CDやコンサートに行くファンという消費者層としてばかにならない、ということだろう。まあ、親からのお小遣いで写真集買ったりするんだけど、十分すぎる商売になる。

それは何故か、というのが問題なんだけど、子供と性現象(セクシャリティー)との特殊な関係にある、というのが本当なんだろう。

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Not least, they do not know the difference between good and evil, only between nice and nasty. S/he is good if s/he does not do anything bad. The ideal of children thus focuses on their innocence, their playfullness, their direct access to the world of  make-believe which, in turn, conncets them to the black and white ethical world of fable and fairytale. It is, however, this conceptualisation of innocence that underpins the contemporary paradox of both containing child sexuality and accepting its exploitation through, for example, the media.    (Sheila Whiteley, Too Much Too Young, 23)

とりわけ彼らは善と悪の違いを知らず、ただいい感じというのと気分が悪いの違いしか知らない。彼女/彼は何も悪いことしないからよい子だ。このように子供という理想は彼らの無垢さや無邪気さ、彼らが空想の世界に直接接近できることに焦点を当てる。その空想の世界が今度は彼らを作り話とお伽話の黒白がはっきりした倫理世界に結びつけるのである。しかし子供の性現象を封じ込めながら、例えばメディアによってそれが搾取されるという現代のパラドックスを支えているのはまさにこの無垢の概念化なのである。
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子供は無垢であるが、大人とは違ってまだ十分には「人間」ではないのであり、性的にはサド/マゾヒズムを含む大人の規範を逸脱した存在として理解される。無垢と性的な逸脱、この二つが子供のポップスターの隠れた魅力であり、音楽消費市場で価値がある、つまり売れるのである。

なんでこんなこと考えてるかというと、シネイド・オコナーのことを考えているからだが、シネイドの場合は19歳でデビューし、しかもシングルが売れ出したころには子供を身ごもっている未婚の母親だったからである。歌詞も性的に挑発的であった。

やはり彼女が売れた重要な条件として子供の、いや思春期の少女の性現象(セクシャリティー)へのファンと音楽業界の関心があったことは否定できないと思う。

書きづらいことではあるが、

私には「アート」の存在意義がよく分からない。

よく飲み屋でいわゆる「アーティスト」って何者だろう、という話になる。結論的には芸術家と「そうでない人」の「中間」ということになる。

では「そうでない人」って何?

単なる読者・視聴者を除外するとすれば芸術家ほどの独創性(作家性)はないが素人よりは才能がある人、ということになろう。

さてさてその「才能」とはどんなもの?

剽窃する才能、オリジナルをパロディーする才能、コラージュする才能、そんな感じだろう。

そもそもポピュラー文化作家(作曲家、作詞家、小説家)が「オリジナル」を主張できるとは到底思えないが、そうはいってもその人たちにも生活がある。つまり著作権の問題があるわけだ。

ちょっと脱線したが、現代美術で言う「アート」が上で述べたように「芸術」未満、「そうでない」以上であるとしても、やはり現代美術で区分される以上、それらの中間と言うよりも「芸術」に限りなく近い、ということになろう。

「前衛」は芸術においても政治においてもおおかた20世紀20年代くらいまでのモダニストの領分であった。ドイツの文学で言えばブレヒトが典型的だが、前衛芸術家でなおかつ前衛政治思想家(マルクス主義者)といいうケースが多いのである。

はっきりしておきたいのは前衛芸術家にしろ前衛政治思想家にしろ、ほとんどはブルジョア階級出身だった、ということだろう。

さて私がよく分からないのは「アート」が芸術ではないと主張されるとき、それではポピュラー文化なのかという問いにどう答えるのか、という点である。

私の見解が正しければ「アート」は大衆消費社会が到来したころに形成された新中産階層の芸術運動である。技術的にもモダニスト芸術家の模倣に思えて仕方がないときがある、正直な話。

なんというか同じ中間層でもテレビドラマにうつつを抜かす人々とは違う「エリート」の臭いがやっぱりしてしまうのだ。

その「アート」の人たちが政治を語るとき、やっぱり在りし日のモダニスト芸術家を思い出す。基本姿勢があまりかわらないからだ。

私が分からないのはそのグラグラ感、芸術でもポピュラー文化でもないことからくるグラグラ感とどう向き合っているのか、またどう向き合っていいのか、である。

すみません、ちょっと真面目に書いちゃいました。

久しぶりのうアップ。誰も読んでくれないだろうなあ。
と不安。

Peter Nyersの'Rethinking Refugees'を読了。アガンベンの「裸の生」と生政治論を中心に、デリダの「ホスピタリティー」の議論を絡め、最後にホーミ・バーバの言葉で締めるあたりほとんどカルスタじゃねえか、と思った。

バーバからの引用、
[The human is] to be identified not with a given essense, be it natural or supranatural, but with a practice, a task. The property of the human being is the collective or the transindividual construction of her or his individual autonomy: and the value of human agency arises from the fact that no one can be liberated by others, although no one can liberate herself or himself without others.

まあヒューマニズム(またヒューマニタリアニズム)の本質主義批判(「人間とは既定の本質ではない」)と「人間の行為性の価値」を救う側ではなくて、一般的に言って救われる側に認めること(「誰も他者によっては解放されえないが、他者なしには誰も自分を解放できない」)が主張されている。

ここから難民の声を「普遍的な人類の声」としてではなくて「政治的なもの」として尊重し、難民を巡る国際的な決定に主権国家やUNHCRのような国際機関だけではなく、難民そのものを参入させる必要を結論付けている。

また難民の「文化権」、文化活動(歌、音楽、絵画、その他)における自己表現にもっと目を向けるべきだ、という結論も伴う。ここにも政治と文化を分けないカルスタ的な視点がある。難民が突きつける事態に興味がある者は法律を学ぶだけではなく、音楽、小説、絵画、映画、テレビ、その他の文化表象を読み解く技術を身につけろ、と。

おおかた賛成である。カルスタのボキャブラリーが専門(法律や経済学など)を超えて共有される可能性、そのことでインターディシプリンが達成される可能性に私も期待する。

不安があるとすれば、Nyersの理論中心のスマートな国際関係論と私がアフリカで実感した「アフリカ」(口に合わない川魚、意外と多いロレックスをはめた人道主義者との遭遇、舗装のないガタガタ道を何時間も走ったこと、アフリカ現地人を下に見ている元ルワンダ難民)とすんなり合致しないことである。

まあ理論バブルが一段落してからかな。

関係者が崇拝している元UNHCRトップの緒方貞子をマイクロソフトのグローバル戦略に易々と乗っかってしまったことで批判するNyersは正しい。「デジタル格差」を無くせば「人類」という普遍的なコミュニティーが達成される、と主張することぐらい愚かなことはないからね。

おっと書き忘れるところだったが、

もしNyersが主張するように難民を巡るUNHCRのような国際機関のヒューマニタリアニズムの原点が19世紀イギリスに始まる動物虐待反対のエートスにあるとすれば(捕鯨に反対する過激な活動家を想起するとそうだと思えるが)、まさに「難民」は動物(とくに絶滅の危機が疑われている動物など)の等価として表象される可能性が大きいということになる。

ここでもデリダの動物/人間という形而上学的な二項対立を「脱構築」するというモチーフの重要性がある。

でも期待を込めて言えばアフリカにはゴリラを研究しに来る自然科学系の学者もいっぱいいるわけだから、カルスタは自然科学もカバーしなければいけなくなるだろう。

そうすれば自然科学者と文化研究者、社会科学者が一つの席について議論が交わせることになる。

でも「専門」の壁は厚いと思うね、まだまだ。
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