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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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アニメが共通の話題になりつつある、O大学の講師控え室。私を含めた喫煙者約3名がタバコが吸える控え室を独占してたりするのだが、皆さんのアニメ話に影響されてしまった。それぞれ英文学、米文学、仏文学(レヴィナス)と専門が違うのでどうしても話題は別のことになる。いやいやみんなアニメ観てんのね、「ニコニコ動画」とかで。
ラキスタ、日暮らし、病んデレのスクールデイズ、しゃな、こんな言葉が当たり前のように飛び交っている。
で、「ぼくらの」にはまっちゃったわけですよ、はは。
同じ原作者で「ぼくらの」以前にアニメ化された「なるたる」は酷かった。これを子供アニメチャンネル「キッズ・ステーション」で流していた、というんだから恐れ入る。気持ち悪い、残酷、暗い、鬱、間違いなくこれ観た子供はトラウマになりそう。
なにせ主要登場人物の子供たちに「自殺するか、セカイを破壊する(人々を抹殺する)」かの選択を迫る、体のものだから。
自分かセカイを選べ、とこれがいわゆる「セカイ系」の極端かつ馬鹿げた薄っぺらい思想。そこに性的な欲望が絡んでくるとどうしようもなく気持ち悪いものになる。
でも「ぼくらの」は傑作だと言っていい、と思う。相変わらず不条理な設定であり、エピソードによっては歪んだ性的な欲望が主題となっていたりするが、主人公の子供たちの人間ドラマがけっこう濃密に描かれている。
けっこう泣きそうになるよ。
「あの時最高のリアルが向こうから会いに来たのは、
僕らの存在はこんなにも単純だと笑いに来たんだ」
なんて歌詞だよ、これ(笑)。主題歌「アンインストール」の出だしの歌詞だが、基本このアニメはやはり「リアル」を巡っているようである。この「リアル」は「向こう」(何処?)からやってきて我々を「笑い」にくるほど悪意に満ちたもののようだ。
さてストーリーからするとこの「リアル」は「死」以外ではありえない。死すべき存在である、という不条理なプログラムを「アンインストール」することを人間はできない、っていう。
そう考えるとこの「ぼくらの」って普遍的なテーマに沿って作られてる気がするね。気味の悪いキャラクター(マスコットのようなフェティッシュ)が出てくるけどね。
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『恋空』。読むのしんどい。
Yoshiの『Deep Loveー第一部アユの物語』の本編は読み終わった。
『恋空』に関しては(犯罪的に)読みやすいとはいえ、こりゃインターネットで読むよりケイタイで少しづつ読むものなんじゃないかな。一挙にはホントつらい。
文学を専門としている以上「ケイタイ小説」ブームをどう考えるかは一つの課題なのだが、大方の文学研究者は無視するんじゃないかな。私だってそうしたい。文学的な要素が皆無だからである。
じゃあ「文学的な要素」って何?ってことになるが、それは追々。
そもそも村上春樹は「文学」なのか、という議論はいまだ燻ってるくらいだから、Yoshiをどう思う?、と言われても、そもそもケイタイ小説の作家(?)たちが「文学」など眼中に入れてないわけだから、答えようがない。少なくとも村上はフィッツジェラルドやサリンジャーといったアメリカ文学の紹介者であり、自らアメリカの大学で日本文学を語ったりしているわけだから、少なくとも「文学」という伝統を眼中に入れている。
では『恋空』は詩なのか?、というはたまた迷惑な疑問にはどう答えるのかだが、答える必要があるのかな?
恋愛詩ということで私が最初に思い浮かぶのは17世紀のイギリスの詩人ジョン・ダン(John Donne, 1572-1631)である(http:// en.wik ipedia .org/w iki/Jo hn_Don ne)
。英語で書かれた詩の中では17世紀の「形而上詩人」と呼ばれたダンやハーバート(George Herbert,1593-1633)、マーヴェル(Andrew Marvell, 1621-1678)らの詩が圧倒的に好きだが、そこには現代詩の祖と言われるT.S.エリオットの影響もある。
単純化するとダンの恋愛詩は「神への愛」との共存、または葛藤がテーマになっていた、と思う。概ねこの時代の詩人はイギリス国教会、またはカトリック教会の牧師であったから当然だが、だからこそかなり大胆で、場合によっては神に対する冒涜と捉えられかねない世俗的な恋愛賛美が濃厚なレトリックの中で表明されていたのである。
だからこそ面白い。『恋空』で「神様が出会わせてくれたんだね」とか書いてるのを見ると、どう言えばいいのか参ってしまう。
でも想像してたより『恋空』は読ませるよ。基本構造はいっしょだが『Deep Love』よりはましかな。ケイタイのメール文化にどっぷり浸かっている世代はそれこそ等身大な「リアル」を感じるんじゃないかな。
それ自体はいいんじゃないの。
Yoshiの『Deep Loveー第一部アユの物語』の本編は読み終わった。
『恋空』に関しては(犯罪的に)読みやすいとはいえ、こりゃインターネットで読むよりケイタイで少しづつ読むものなんじゃないかな。一挙にはホントつらい。
文学を専門としている以上「ケイタイ小説」ブームをどう考えるかは一つの課題なのだが、大方の文学研究者は無視するんじゃないかな。私だってそうしたい。文学的な要素が皆無だからである。
じゃあ「文学的な要素」って何?ってことになるが、それは追々。
そもそも村上春樹は「文学」なのか、という議論はいまだ燻ってるくらいだから、Yoshiをどう思う?、と言われても、そもそもケイタイ小説の作家(?)たちが「文学」など眼中に入れてないわけだから、答えようがない。少なくとも村上はフィッツジェラルドやサリンジャーといったアメリカ文学の紹介者であり、自らアメリカの大学で日本文学を語ったりしているわけだから、少なくとも「文学」という伝統を眼中に入れている。
では『恋空』は詩なのか?、というはたまた迷惑な疑問にはどう答えるのかだが、答える必要があるのかな?
恋愛詩ということで私が最初に思い浮かぶのは17世紀のイギリスの詩人ジョン・ダン(John Donne, 1572-1631)である(http://
。英語で書かれた詩の中では17世紀の「形而上詩人」と呼ばれたダンやハーバート(George Herbert,1593-1633)、マーヴェル(Andrew Marvell, 1621-1678)らの詩が圧倒的に好きだが、そこには現代詩の祖と言われるT.S.エリオットの影響もある。
単純化するとダンの恋愛詩は「神への愛」との共存、または葛藤がテーマになっていた、と思う。概ねこの時代の詩人はイギリス国教会、またはカトリック教会の牧師であったから当然だが、だからこそかなり大胆で、場合によっては神に対する冒涜と捉えられかねない世俗的な恋愛賛美が濃厚なレトリックの中で表明されていたのである。
だからこそ面白い。『恋空』で「神様が出会わせてくれたんだね」とか書いてるのを見ると、どう言えばいいのか参ってしまう。
でも想像してたより『恋空』は読ませるよ。基本構造はいっしょだが『Deep Love』よりはましかな。ケイタイのメール文化にどっぷり浸かっている世代はそれこそ等身大な「リアル」を感じるんじゃないかな。
それ自体はいいんじゃないの。
作詞家であった阿久悠の死去と詩人イエーツの読書会。
同じく言葉を紡ぐ職人でありながら別世界を生きた二人、その深い溝で「ことば」の生(機能とは言うまい)に思いはせる必要がある。
この世に生まれてこのかた歌謡曲に囲まれて育ったことは言うまでもなく、その中でも阿久悠の言葉をその都度の流行歌とともに聞いていた私がある。
望むと望まざるを問わずフィンガーファイヴ、ピンクレディー、沢田研二、石野眞子の歌声に阿久悠の言葉を聞いていた。
今はJポップの時代。歌謡曲とは何だったのか、Jポップとは何か、そういうことが気になる。
イエーツの'The Gift of Harun Al-Rachid'。アラビアの千夜一夜物語、古都バグダッド、シンドバッド、古典的なオリエンタリズムを背景にした詩である。
ピンクレディーの「渚のシンドバット」を思い出すのは不謹慎だろうか?
たぶん不謹慎ではないのだ。ノーベル賞詩人イエーツの題材と物語プロットは近・現代日本の漫画、アニメ、歌謡曲、jポップ等の中に見出すことができるし、特に最近流行のライトノヴェルなんかに濃厚に見出せる。
イエーツにありライトノヴェルにないのは内省の深さ、すなわち思想であり、言葉の超絶的な技巧である。
つまり言葉の超絶技巧が「思想」なのである。
いわゆるセカイ系(私=セカイ)がおぞましいのは自分勝手なセカイ観だけにあるわけではなく、言葉への執着があまりにもないことにある。このセカイでは「ことば」は記号に過ぎない。もちろん文学の言葉の超絶技巧にもまた「異常性」が感じられないわけではない。しかしその異常性、逸脱性が「人間」であると感じられた時代があったことは確かだ。
思想がなくコミュニケーションしかないポピュラー文化と、思想しかなくコミュニケーションを拒む文学、そのどちらもが現在の「私」には混在している。
それはそれでキツイ。
同じく言葉を紡ぐ職人でありながら別世界を生きた二人、その深い溝で「ことば」の生(機能とは言うまい)に思いはせる必要がある。
この世に生まれてこのかた歌謡曲に囲まれて育ったことは言うまでもなく、その中でも阿久悠の言葉をその都度の流行歌とともに聞いていた私がある。
望むと望まざるを問わずフィンガーファイヴ、ピンクレディー、沢田研二、石野眞子の歌声に阿久悠の言葉を聞いていた。
今はJポップの時代。歌謡曲とは何だったのか、Jポップとは何か、そういうことが気になる。
イエーツの'The Gift of Harun Al-Rachid'。アラビアの千夜一夜物語、古都バグダッド、シンドバッド、古典的なオリエンタリズムを背景にした詩である。
ピンクレディーの「渚のシンドバット」を思い出すのは不謹慎だろうか?
たぶん不謹慎ではないのだ。ノーベル賞詩人イエーツの題材と物語プロットは近・現代日本の漫画、アニメ、歌謡曲、jポップ等の中に見出すことができるし、特に最近流行のライトノヴェルなんかに濃厚に見出せる。
イエーツにありライトノヴェルにないのは内省の深さ、すなわち思想であり、言葉の超絶的な技巧である。
つまり言葉の超絶技巧が「思想」なのである。
いわゆるセカイ系(私=セカイ)がおぞましいのは自分勝手なセカイ観だけにあるわけではなく、言葉への執着があまりにもないことにある。このセカイでは「ことば」は記号に過ぎない。もちろん文学の言葉の超絶技巧にもまた「異常性」が感じられないわけではない。しかしその異常性、逸脱性が「人間」であると感じられた時代があったことは確かだ。
思想がなくコミュニケーションしかないポピュラー文化と、思想しかなくコミュニケーションを拒む文学、そのどちらもが現在の「私」には混在している。
それはそれでキツイ。
オレにはバブルは関係ねー、と思ってきたのですが・・・。
やはりバブルを自分なりにでも清算する必要のある人間の一人であることを自覚するに至る。
今日は南大沢のST大学で授業のあと、M台の弟子の一人で最近共著を出したSさんと昼飯を食らう。
ちょうど月曜日は講師室で一緒なんだよね、奇遇なことに。
M台氏に興味が持てないこと、東にもあまり興味がないことを再確認。私がだよ。
S氏と話していて、バブルに代表される高度消費社会の私なりの回避の仕方が「文学」であったことも再確認。それ以来社会というものにあまり興味を持てなくなった理由もそれ。ある意味消費社会とはまったく別の神学を「文学」に見つけたことでアノミーを乗り切ることができたのだと思う。
もちろんそれだからといって誰にでも、とくに若者に「文学」を薦めるほどの説得力が現体制の文学にも、また文学研究にもないことは私も認めている。
ベストではなく、ベターな選択をしたまでである、当時の私は。でもその神学がここ数年また揺らぎだしたんだけどね。
その点においてはロックがあまり頼りにならなかった、とは正直に言っておく。
今日の一曲はAC/DCの「Hail Caesar」。ロック=ダサイが時々ロック=ダサイ=でもかっこいい、になる永遠のワンパターンハードロックバンドである。アンガス・ヤングのランドセル。