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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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M大学の修士時代に知り合った先輩である佐藤亨氏の本『異邦のふるさと「アイルランド」』(新評論社)をほぼ読み終わった。

氏とは10年以上前にポール・マルドゥーンの詩集の翻訳と論考集でご一緒させて頂いた貴重な経験がある。

実は去年の「セント・パトリックデイの集い」(日本アイルランド協会主催)で見本として置いてあったものを直接頂いてから今日まで読破していなかった悪い後輩の私であった。

佐藤氏はもともとT.S.Eliotの研究者であったが、共通の指導教授の影響もあってシェイマス・ヒーニーやマルドゥーンといった北アイルランドの詩人に傾倒していった。その途中で1994年に『おどるでく』で芥川賞を受賞した室井光広氏と意気投合し、ヒーニーの随筆を共同で翻訳などもしている。

なんと言えばいいんだろう、この本の充実ぶりには目を見張るものがあり、改めてこの先輩の凄さを実感した感じだ。

論文などを基にしてるとはいえ、本人のアイルランド体験をふんだんに採り入れ、その上できめ細かく正確な情報を記載していて、すばらしい。でも一番感心するのは氏の詩情豊かな日本語である。詩情とデータの正確さ、これがいい按配になっている。

残念ながら題材がヨーロッパの小国アイルランドで、その多くは詩人の作品から透かし見ている体のものなので売れることは期待できないだろうが、文学者の良心のような風格が漂う。

私が口惜しいのは10年以上前にマルドゥーンの翻訳と論考を一緒にまとめていたときに、The Poguesのことを氏に紹介したのは私だったはずだ、ということである。この『異邦のふるさと』でも何回かザ・ポーグスに関して論じられており、「幾千人もの人が船出する」という曲を19世紀の大飢饉、そこから加速した移民の歌として実に詳細に紹介している。

The Poguesはパンクとアイリッシュ・トラッドを融合して成功した唯一無比のバンドであり、本来なら私が真っ先に書かなければならない題材であった。

ただし氏のポピュラー音楽の扱いに対しては不満がある。氏の視界には北アイルランドの消費社会とかそこに根付いた消費文化というものが入っていない。消費文化は基本的には労働者の文化、または労働者階層の者たちが苦労して作ってきた文化である。いや最終的には階級にこだわる必要はないであろう。元来エンターテインメントは定住地を持たない、最下層階級の市民にも属さない流浪の民が担っていたものであるからであり、いわば「見世物」すなわちフリークスだったからだ。

Here we are now, entertain us
(俺たちはここに居る、さぁ愉しませろ)
I feel stupid, and contagious
(俺が間抜けみたいに感じるぜ、しかも伝染する)
Here we are now , entertain us
(俺たちはここに居る、さぁ愉しませろ)
Amaretto, an albino, a mosquito, my libido,
(アマレット、アルビノ、蚊、俺の性的衝動)
Yeah! Hey. yay.
             (Nirvana, 'Smells like a teen spirit')

自殺したカート・コバーン(1967-1994)の怒声がここで思い出される。風変わりな酒や蚊やアルビノが同居するなんともいかがわしい盛り場で、客の一人に扮したコバーンは「さぁ愉しませろ」と舞台上の芸人にわめき散らす。

実はコバーン自身がステージ上で要求されていることなのである。「さぁ愉しませろ」と。

芸人(エンターテイナー)はそのようにわめき散らす「民衆」の一部なのではない。そうではなくて「民衆」を愉しませることでやっと生計を立てていかねばならないフリークスだったのだ。

氏は文化に対して徹頭徹尾言葉と「歌」からアプローチを試みる。北アイルランドのミューラルに描かれた絵や言葉から数世紀に渡る分断の歴史をまさに「歌」として再現しようとする氏の試みは見事だ。だから音楽も流れているわけだが、氏の耳に聞こえてくるのは「民衆」の歌謡の調べであって、民衆の一部でさえない芸人の歌ではない。フリークス芸人の歌は近代の資本主義の中で民衆を愉しませる音楽、とくにその権化と見なされがちなロック音楽へと引継がれる。

浮薄な文化産業にまみれたロックにも氏の気づかない哀しさや希望がある。この「希望」は国籍も土地も持たず、したがって歴史からも自由であることにその一端があるとはいえ、だからこそ哀しさの裏返しなのだ。

だがそれが文学者ではある。詩情がやさくれたパンク青年に伝わるかどうかはちょっと怪しい。

「ふるさと」や民族の記憶を共有するような感傷を彼らは持たぬであろう。

経済資本のみならず文化資本さえ乏しい「未来のない」者にとって文学は、すべからく詩は、知的エリートの文化であり、反抗すべき文化なのである。"fili"とは中世アイルランド島に存在していた「吟遊詩人」だと言われているが、「吟遊」などしていない。彼らは領主の廷臣であり、文化エリートだったからである。

芸人はその代わりにロックンロールという表現手段を20世紀に発明した。下品で粗末な、それでいて荒々しいエネルギーに充満した表現形態。ロックンローラーはむしろ自分の出自を括弧に入れて、アフリカ系移民のような「他者」にこそ共鳴して、「暴動」("riot") を画策する、というより夢想する。

もちろんポーグスのショーン・マッガワンはパンクとしてスタートしながらも民謡を題材にして「アイルランド」に回帰したミュージシャンだとは言えるだろう。しかし彼の根本はパンクロッカーであり、芸術や文学とは何のかかわりを持たない(持てない)フリークス文化、消費文化の担い手なのである。

でも私にも文学者としての教養がある以上この本が立派な本であることを素直に認める。

*カート・コバーン率いるNirvanaの歌詞はhttp://madteaparty.seesaa.net/article/24443428.htmlから引用させて頂いた。
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私の旧ブログ「余白」がまだ見れるようです。
よろしくお願いします。アフリカ滞在記が充実しています。
 http://blog.livedoor.jp/aag42740/?blog_id=537478
月一のイエーツの読書会。

この会10年くらいは続いていて、私が参加してからは4年くらいが経つ。リーダー的な人とけんかして殴ってからは3年くらいかな。「殴った」というのは大袈裟だけど、あまりにもこのおじさんしつこく絡んでくるので、頬を軽くはたいた。

それ以来このいい歳のイエーツ研究者は来なくなった。

大方毎回詩を3ページ分くらいを2時間半ほどかけて読み合う(朗読、訳、解釈を含めて)。詩によっては10行くらいを一時間かけて読まないといけないときもある。一人で読むには難しすぎて分からないのだ。

「詩」というと部外者の方々にはなんともポエムというかファンタジーな世界を思い描いて「ちょっと勘弁」となるのだろうが、

そんなことはないですよ!

イエーツの詩の世界を単純化すると、アイルランド独立運動、オカルト、欲望(特に性欲)、こんな感じだ。とくにイエーツの「性」への執着は凄まじいものがある。昨日読んだ詩でそれを再認識した形。

イエーツはオカルトの影響でこの世とは別の実在の世界(アニマ・ムンディと彼は呼ぶ)を想定しがちなのだけど、止みがたい性の渇きががっちりとこの世に縛り付けているわけです。困ったことに老人になればなるほどその執着がイエーツの場合激しくなる。

常識的に彼の詩を読んでいくとどうしても「変態じじい」なのである。

まあこのスケベさがイエーツの魅力なんだけどね。

The first of all the tribe lay there
And did such pleasure take ---
She who had brought great Hector down
And put all Troy to wreck ---
That she cried into this ear,
'Strike me if I shriek.'
(A Man Young and Old)

その部族(トロイ人)の一番の者(女)がそこ(私の腕)に横たわった、
そしてあまりもの快楽を味わったーーー
彼女、偉大なヘクターを破滅に導き、
そしてトロイの全てを灰塵に帰した女はーーー
(私の)この耳に「私がもし叫び声を上げるようでしたら、
叩いてください」と泣いて懇願するほどに。

一応説明的に訳してみたけど、イエーツの個人的な性体験をトロイ戦争の原因となった美女ヘレンを抱いた男の記憶に重ね合わせているんです。

どちらにしてもエロい、'Strike me if I shriek.'

この詩を書いたのはイエーツが63歳くらいのときである。自分の女性体験をかなり生々しく回想する詩人であるなー。

この性/生への執着がこの詩人をファンタジーの世界というよりも俗世の世界に思考を引き留めるのである。

けっこうイエーツが好きになってきた!

翻訳の仕事というのはなんとも報われない、

大体下働きの者に任せるか、完璧な翻訳ソフトができたらいいのに、とか考えている。コミュニケーションツールとしての言語というのが定着しているから、そんな透明な言語の理想が全体主義に近い考えだということに気付く人が少ない。

デリダを読め、というか酒井直樹を読め、というべきか。

昨日は参加してから5年ほど経つW.B. Yeatsの読書会。

Among School Children,その一節、

What youthful mother, a shape upon her lap
Honey of generation had betrayed,
And that must sleep, shriek, struggle to escape
As recollection or the drug decide,
Would think her son, did she but see that shape
With sixty or more winters on its head,
A compensation for the pang of his birth,
Or the uncertainty of his setting forth?

これ日本語に訳せる人は相当なもの。こんなの英語じゃない、というのもまあ分からんじゃない感想。

もちろん韻を踏むために文の構造が複雑になっているのもある。ちなみにabababcc。

これを普通の文章に直してみる、できるだけ。

What youthful mother, with a shape upon her lap that honey of generation had betrayed and that must sleep, shriek, and struggle to escape, would think her son, if she only saw that shape with sixty or more winters on its head, a compensation for the pang of his birth or the uncertainty of his setting forth?

さてこれでも訳するのは億劫だ。一つには仮定法に気付いても "honey of generation" とか "shape" とか、"with sixty or more winters on its head" とか何のことか正しく想像できなければならない。

ちなみに "with sixty or more winters on its head" は「六十の、またはそれ以上の年月を経て頭に白髪が覆っている」ということね。「六十の冬」を「六十年年取って生えた白髪」と想像力を逞しくして読まねばならない。

普通の英文に直したものを単純に(ちょっとはしょって)解釈すると、

今は膝に幼児を抱えている若い母親が、もし六十年年取った白髪頭の子供の姿を見ることができるなら、生みの苦しみや別離の不安などの代償(埋め合わせ)として自分の息子を考えるだろうか、いや考えないだろう。

これでもなんのことやねん、と言われるかも知れん。やっぱり文学はいらんわ、と。イエーツは「美」に取り付かれていた人だから60を過ぎたさえない老人になった自分が耐えられない。それが気持ち悪いわ、と言われるかもしれない。確かに・・。

でも「言葉」って想像力を喚起し、意味を超えた感情や怒りを伝えるものだと思うのですよ、「何を言っているのか」ではなく「何でそんな風に語るのか」が重要っていうか。

「出生の蜜」("honey of generation") とか「想起」("recollection") という言葉にはネオ・プラトニズムの影響が垣間見える。人が生まれてくるこの世は「仮象」に過ぎず、したがってこの世に生まれてくることは「裏切られた」結果であり、実在は永遠普遍のイデア界にこそある。「形」("shape") も後の連で出てくる「像」("image") もプラトンの、またプロチノスの「形相」との連想から使われていることは明らか。

だから何?って言わんといてや。

ジョイスへの回帰を(ヨーロッパ)文学の伝統への回帰と拡大解釈してもらっては困る。私にとっては1920年代において大方文学は最高潮に達し、しかも同時に終焉したのだ。詩はT.S.エリオットの「荒地」とともに、小説はジョイスの『ユリシーズ』とともに、また少し遅れて演劇はS.ベケットの諸作品とともに。

だからジョイスへの回帰は死亡診断 (post-mortem) を遂行するための回帰である。

文学の「終わり」(end) を私は「目的=終わりの終わり」と少々レトリカルに論文(「詩作=反復とテクノロジー」)で定義した。その心は我々と同時代の文学が示しているのは衰弱していく、つまり緩やかに自然死へ向かう文学以外の何ものでもない、ということである。ただしこのことは文学研究にもはやなすべき仕事がない、ということを意味しない。そうではなくてむしろ文学研究には文学の「死亡診断」というとてつもなく重要で、粘り強い、時間の掛かる作業が残されている、ということである。

ベケットの『マローンは死ぬ』という小説以来文学は、文学の死を劇化するという所作を繰り返すこと以外のことをしていない。私にはそう思える。

日本の状況はどうかというと、町田康の小説に特徴的だが、やはり文学の死以外の内容があるようには思われない。

近代文学の到達点であるとともにその決定的な死であるモダニストの文学にはだからこそ回帰する価値がある。近代文学の諸テーマは今ではポピュラー文化(消費文化)が担っており、モダニストの極端な美学もまたポピュラー文化(特にサブカルチャー)によって引き継がれている。T.アドルノがジャズに、またハリウッドに異議を唱えたのはポピュラー文化があまりにも易々とモダニストの美学を商品化することに成功していたからであったことを忘れてはならない。アドルノにはジャズやハリウッド映画に「精神的な労働」が希薄だと感じられた。どちらにしてもモダニスト以降の文学にできることは文学の死を如何に生き抜くか、という主題しかないのである。

したがって文学外の人びとの間でジョイスやベケット、またイエーツが人気なのはひとえに文学の人気というよりも、いやその栄光とともに、その死を体現して見せたことにもあるのではないか(消費文化の勝利!)。

何故文学がモダニストにおいて絶頂を迎えるとともにその終焉を決定づけたか、については社会学的な説明が一つ提案されている。つまり1920年台における古典的な自由主義の終焉である。文学を社会学的に解剖してみせた先駆者の一人フランコ・モレッティは、少々カール・ポランニーの理論を真に受けすぎの感もあるが、どちらにしても文学の高揚とその終焉を文学を取り巻く社会それ自体の「危機」の反映として捉えてみせた。市場の自動調節機能とその社会の有機的統一に果たしたその役目の衰退である。「20世紀の最初の数十年の間に社会はその内在的な合理性を失った」(p.225) とされる。モレッティに拠れば「荒地」においてエリオットは「神話的方法」を無理やり設定することによって断片化していく作家主体と作品に対して合理性を保証しようとしたのだ。神話の利用はエリオットのものとは異なっていたとはいえ、ジョイスはジョイスで『ユリシーズ』において聖三位一体の神秘をといった首尾一貫せぬ寓意を混ぜ込まざるをえなかったことを想起しよう。エリオットは神話となった詩が社会を変革しうると不幸にも信じたが、ジョイスはそのことすら信じていなかった。ここから帰結するのは文学の社会からの徹底的な乖離であり、政治経済や歴史への徹底的な「無関心」である。合理性を失った社会の鏡像ではあるが、もはや独立した鏡である。文学はついに社会という自らの支えを失ったのである。一方ではマラルメが半世紀も前にフランスで成し遂げていたこと、社会という参照項を持たない「純粋詩」という理想がジョイスにおいて達成されたとも言えるが、それは社会的には文学の死以外の何ものでもない。

フランコ・モレッティ『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス』(新評論、1992)。

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