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ジョイスへの回帰を(ヨーロッパ)文学の伝統への回帰と拡大解釈してもらっては困る。私にとっては1920年代において大方文学は最高潮に達し、しかも同時に終焉したのだ。詩はT.S.エリオットの「荒地」とともに、小説はジョイスの『ユリシーズ』とともに、また少し遅れて演劇はS.ベケットの諸作品とともに。
だからジョイスへの回帰は死亡診断 (post-mortem) を遂行するための回帰である。
文学の「終わり」(end) を私は「目的=終わりの終わり」と少々レトリカルに論文(「詩作=反復とテクノロジー」)で定義した。その心は我々と同時代の文学が示しているのは衰弱していく、つまり緩やかに自然死へ向かう文学以外の何ものでもない、ということである。ただしこのことは文学研究にもはやなすべき仕事がない、ということを意味しない。そうではなくてむしろ文学研究には文学の「死亡診断」というとてつもなく重要で、粘り強い、時間の掛かる作業が残されている、ということである。
ベケットの『マローンは死ぬ』という小説以来文学は、文学の死を劇化するという所作を繰り返すこと以外のことをしていない。私にはそう思える。
日本の状況はどうかというと、町田康の小説に特徴的だが、やはり文学の死以外の内容があるようには思われない。
近代文学の到達点であるとともにその決定的な死であるモダニストの文学にはだからこそ回帰する価値がある。近代文学の諸テーマは今ではポピュラー文化(消費文化)が担っており、モダニストの極端な美学もまたポピュラー文化(特にサブカルチャー)によって引き継がれている。T.アドルノがジャズに、またハリウッドに異議を唱えたのはポピュラー文化があまりにも易々とモダニストの美学を商品化することに成功していたからであったことを忘れてはならない。アドルノにはジャズやハリウッド映画に「精神的な労働」が希薄だと感じられた。どちらにしてもモダニスト以降の文学にできることは文学の死を如何に生き抜くか、という主題しかないのである。
したがって文学外の人びとの間でジョイスやベケット、またイエーツが人気なのはひとえに文学の人気というよりも、いやその栄光とともに、その死を体現して見せたことにもあるのではないか(消費文化の勝利!)。
何故文学がモダニストにおいて絶頂を迎えるとともにその終焉を決定づけたか、については社会学的な説明が一つ提案されている。つまり1920年台における古典的な自由主義の終焉である。文学を社会学的に解剖してみせた先駆者の一人フランコ・モレッティは、少々カール・ポランニーの理論を真に受けすぎの感もあるが、どちらにしても文学の高揚とその終焉を文学を取り巻く社会それ自体の「危機」の反映として捉えてみせた。市場の自動調節機能とその社会の有機的統一に果たしたその役目の衰退である。「20世紀の最初の数十年の間に社会はその内在的な合理性を失った」(p.225) とされる。モレッティに拠れば「荒地」においてエリオットは「神話的方法」を無理やり設定することによって断片化していく作家主体と作品に対して合理性を保証しようとしたのだ。神話の利用はエリオットのものとは異なっていたとはいえ、ジョイスはジョイスで『ユリシーズ』において聖三位一体の神秘をといった首尾一貫せぬ寓意を混ぜ込まざるをえなかったことを想起しよう。エリオットは神話となった詩が社会を変革しうると不幸にも信じたが、ジョイスはそのことすら信じていなかった。ここから帰結するのは文学の社会からの徹底的な乖離であり、政治経済や歴史への徹底的な「無関心」である。合理性を失った社会の鏡像ではあるが、もはや独立した鏡である。文学はついに社会という自らの支えを失ったのである。一方ではマラルメが半世紀も前にフランスで成し遂げていたこと、社会という参照項を持たない「純粋詩」という理想がジョイスにおいて達成されたとも言えるが、それは社会的には文学の死以外の何ものでもない。
フランコ・モレッティ『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス』(新評論、1992)。