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ロラン・バルト、
この人やっぱ資本主義消費社会を心から楽しんだ人だと思う。「ジュルヴェのアイスクリーム」もそうだけど、この人広告を論じるときは本当に楽しそう。記号論を広告、服飾モード、等の商品関連の分析に適用したのは慧眼というか、早かったと思うが、何というか学者肌ではないんだな。読み易くて面白いんだが、厳密に言うと何を言っているのかよく分からない。直感の冴えというか、嗅覚がいいというか、「作者の死」とか気の利いたフレーズがぽんぽん飛び出してくる。これは一種の才能なのだが、彼の著作が一体誰にもっとも役に立ったかというと広告業を筆頭にした文化産業の人なんではないかな、と思う。でも現代思想にとっては必要なトリックスターだったのだと思うし、フランス人に愛されてるのも分からないではない。フランスはバルト流に資本主義を謳歌するってのはそのマルクス主義的な伝統からすると難しい知識人の立場だから。
マラルメはバルトの弟子クリステヴァの十八番でした。加えてジョイスもね。
ジョイスを巡ってクリステヴァやらデリダ、ラカンがあまりにも発言するものだから研究者としては地獄のような毎日でした。ジョイス読むだけでも大変なのに、ジョイス研究者が軒並みラカンやらデリダ、バフチンの理論を援用して論文書いてたから、なんだか現代思想の解説書を読んでるのか文学研究書読んでるのか分からない状況にあった。それがつらくなっていったんジョイス研究から手を引いたんだけどね。今から思うと糞のように難解なだけの研究書を高い金出して買って、読んでいたのがばかばかしくさえある。ジョイスに係わるのがいつの間にか楽しくなくなっていた。
さて広告の起源というか機能に関して、ジョイスの『ユリシーズ』に関連して確認しておきたいことがある。この小説(「小説」ではないという人もいる)の主人公は言うまでもなくジョイスの若き自画像と云われている Stephen Daedalus とユダヤ人のプチブル Leopold Bloom である。スティーヴンはあまりにも青い文学青年なだけにちょっと感情移入するのが憚れるが、私はどちらかというと中年の小市民ブルームの方が好きなのである。小説は一日のどうでもいいような出来事を含めて異常な数の語りと文体を駆使して書かれているのだが、このブルームときたら女のことと金儲けのことしか考えていないのである。しかもことごとく女にも金儲けにも失敗する。それも効果的で革命的な「広告」を発明することや、無駄な消費のみに熱心であって、生産の現実とか労働者のことはほとんど理解できない。そういう訳で『ユリシーズ』を歴史的に極めて早い消費社会観察の書と考えてもよいと思う。
さて広告が何故生まれてきたか、広告は社会の中でどのような機能を歴史的に果たしているのかを考えるとき、市場経済の法則、つまり需要と供給のバランスが定期的に壊れてその結果商品が大量に余って流通しなくなる、そしてインフレ(または恐慌)が起こる、という現象に求めるのは今でも有効だろうか。何故そうなるのかのメカニズムは私にはよく分からないが、大量に作られてしまう商品を売るためにそれなりの需要を増やす戦略が生産業者側に必要になる。そこで広告の出番である。市場経済の自動調整機能が幻想に過ぎないことが明白になった以上、人工的に需要を作り出さなければならない。それが定着したのが20世紀初頭の20年間だったとフランコ・モレッティという学者(『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス』)は述べている。
ブルームは地元ダブリンの新聞社で働く広告取りであった。
さて再びロック・ミュージシャンによるジョイスのアダプテーション。
ジョイスが音楽好きであったことは有名であるが、どんな曲を演奏しているかは不明。さてその下の写真は80年代ニューウェーヴを代表するバンドThe Go-Betweensのシンガーの一人Robert Forster。その彼のソロアルバム(実はこれ聴いてない)。もう一人のシンガーGrant McLennanは今年春に他界しているが、二人で交互に歌っていたようだ。それにしてもよく似ている。ジョイスはロックミュージシャンに大変人気あるのが分かる。おそらく20世紀で最も重要な小説はと聞かれれば、間違いなくジョイスの『ユリシーズ』であろうことは誰も否定しまいが、彼の存在自体が一種の「神」。
しかし誰でもジョイスになれるよ、というのが大衆消費文化の論理なんですよ、これが。
「ゲッツ」のダンディーではもちろんない。
歴史上の「ダンディー」(dandy)についての研究書は大変少ないものの、一般に我々が生きている消費社会で文学に出会うのは読書を通してというよりもライフスタイルの偉大な先輩としてである。我々は過去の詩人、小説家、画家などに雑誌の特集記事などを通して出会う。夏目漱石などの近代の文人たちもまたダンディーの見本として、時に「メランコリー」のポーズとともに雑誌に採りあげられることが多い。小説や詩が詳細に論じられることはなく、文人の生き方そのもの、その審美的なファッション感覚や特異な立ち居振る舞いが大衆紙では感嘆の対象となっている。もちろん作品の価値を云々する文芸誌はあるにはあるが、専門家を含めた一部の者にしか読まれておらず、敷居が高い。
歴史的なダンディーとしては「伊達男ブランメル」 "Beau Brummell" とオスカーワイルド、ダンディーを論じてもいるフランスの詩人ボードレールを挙げれば十分であろうか。詳しくはWikipediaを参照。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dandy
消費社会でいかに文学(というより文人)が記号として社会に発信されているかの例。
上の写真はジェームズ・ジョイスの晩年のものだが、山高帽、ステッキ、左手のもたれ方、視線の方向、など当時の写真撮影の制約や要望というものがあっただろうが、ジョイスの「スタイル」はやはり20世紀初頭を生きていた芸術家に特有なダンディーである。ポーグス(The Pogues)は言わずと知れたパンクとアイルランド伝統音楽をミックスしたバンドであり、アイルランドのみならず世界のポピュラー音楽においても重要なグループである。ポーグスはロンドン生まれのアイルランド移民たちが作ったバンドであり、彼らの祖国アイルランドに思いをはせてジョイスに至ったのであろう。この一枚はシングルで、ジョイスの短編集『ダブリン市民』に収録されている「恩寵」('Grace') に引っ掛けて書かれた曲のようだ。「引っ掛けて」というのはちょっと意地悪な言い方であるが、彼らがジョイスの文学作品を好んで読んでいたとしても、この曲、この歌はいわゆる「文学」には属さないからである。ジャケットのコラージュが示すように、ポピュラー消費文化はまずもって芸術家や文人のダンディズムこそ採り入れる。等身大の人間ジョイスというよりも視覚的な記号としてのジョイスに意味があるのである。
大方19世紀末から20世紀初頭のモダニストたちに特有なダンディズムは新興中産階級(商人、銀行家、株取引に係わる者たち)への嫌悪、群集(mob)としての「大衆」からの自らの差異化、そういった表現になっていたと思う。つまり社会に頓着しない超然とした姿勢、生き方。それを大衆消費文化は誰にでも実践できるようにマニュアル化し、雑誌で特集などして世に広めた。
「ヘミングウェイという生き方」なんてのはよくある特集記事だ。
芸術をではなく、芸術家のスタイルを模倣する、それが多くの場合、つまり文化資本の少ない家庭に生まれた人たちが文学や美術、つまり芸術と出会う出会い方である。それがいいことかどうかは分からないが、そうなのだ。本気で文学に向き合うことになった私などは超マイノリティー。でも入り口はジョイスやコクトー、ボードレールの「かっこよさ」だった。
日本アイルランド協会全国大会が滋賀大学で先週の土・日にあった。私は日曜日に発表させてもらった。あんまり大声では言えないのだが、7月に「カルタイ」で発表したものをもう少し文学色を強くして、極力むずかしい理論は省くつもりであった。聴衆の中にいわゆる「文化研究」者はほとんどいない、と判断したからだった。この学会の主力は歴史学と文学であり、とくにここの文学研究者にはイエーツ、ヒーニー、等の現代詩研究者が多い。私自身ジョイス研究以来、現代詩研究に従事していた。さて、そういうわけで「パンク」を含めたサブカルの説明は手短に済ませるつもりだったのだが、やっぱり引っ掛かってしまった。私は「パンク」を記号論のレヴェルにおいては価値があるものの、文学言語としては価値がないことを認めざるをえなかったわけであるが、記号論の(手短な)導入は聴衆を少々混乱させたようだ。私としては文化産業の論理として、言語の使用がなされる場合でも、作家の意図に根拠を置いたり文学の伝統をその価値の源泉としたりせず、言語の記号的な論理が優先される、と言いたかったわけである。もちろん、文学の論理を言語とし、市場の論理を記号とすることには議論を分かり易くする意図が私にあったからだが、この二項対立に絶対的な自信があったわけではない。
(文化)市場の論理を記号として提出するためにマスメディアの媒介性を強調することになったのだが、今回新しく補完した議論は、
サブカルチャーの一つの源泉として、18世紀末から20世紀20年代くらいまでの「ダンディー」に言及した(とくにオスカー・ワイルド)。
パンクの先駆者として「ダダ」に言及した(その神聖冒涜的な言動、作品など)。
この発表をするまで忘れかけていたのだが、というかDick Hebdigeを読み直して思い出したのだが、文学と社会学を軽やかに行ったり来たりして一世を風靡した批評家にロラン・バルトがいた。文学研究においては80年代、90年代初頭までは記号論は有力な研究方法論の一つだったはずだが、大方それ以降は消えていった。代わりに社会学のメディア論やカルスタが記号論を継続していった、と思う。現在は再び文学と社会学メディア論は別々の道を歩んでいるように私には見える。
さてバルトの小論集『記号学の冒険』を15年くらいぶりに手に取った。文学と社会学をどうやって軽やかに行ったり来たりできたのか確かめたくなったからである。ジョイスとセックス・ピストルズを同時に論じることは本当に可能なのか、文学と消費文化はどう出会えばいいのか、そういうことだ。
「広告のメッセージ」
バルトはこの小論で広告の論理を言葉の簡単な分析を通して明らかにしようとしているのだが、彼が挙げている例を見てみよう。
「ジュルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」
ジュルヴェはフランスの食品メーカーのブランド名らしいが、これは広告の宣伝文句(つまりコピー)。バルトはこの宣伝文句にはメッセージが二重化されている、という。一つは字義通りのメッセージであり、「ある種のアイスクリームの摂取が、おいしさの効果によってまちがいなく全身の溶解を引き起こす」である。この場合記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)はメッセージの元で齟齬がなく、「あらゆる言語活動が<翻訳する>ものとされている現実との関連において」外示のメッセージとして機能している。というか、この宣伝文句のメッセージこそが記号内容(シニフィエ)である。
ところが当然であるが、我々はこの宣伝文句を上のように文字通りに理解しはしない。さてバルトは上の第一のメッセージとは関連はしているが別の論理で、「ジュルヴェはアイスクリームのうちで最高である」という第二のメッセージに苦もなく到達するという。それをバルトは「共示」(コノテーション)のメッセージと呼ぶ。つまり広告の言語はどの商品を売るにしても同じ一つのことしかメッセージとして持っていないということ。「この商品を買ってください」である。バルトは第二のメッセージは第一のメッセージ(シニフィアンとシニフィエの結合体)を記号表現として成り立つという。したがって「ジュルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」はそれ自体がシニフィアンとなり、「ジュルヴェはアイスクリームのうちで最高である」というシニフィエがメッセージとして読み手に伝わるわけである。
要するにバルトはどのような記号内容(シニフィエ)も記号表現(シニフィアン)に転化しないものはない、と主張してシニフィエを構成しがちな普遍的な理念を相対化する。したがって記号表現の論理をこそ研究すべきである、と。しかしちょっと待て、そうなると「この商品を買ってください」というのが唯一ではないにしても最強のシニフィエということになるんじゃないかな。それが資本主義の世界に生きる我々の宿命か?
第一のメッセージは、第二のメッセージの打算的な目的性、その主張の根拠のなさ、その威嚇的説得のぎこちなさを取りのぞく。平凡な勧誘(買ってください)のかわりに、アストラやジュルヴェを買うのが自然であるような世界を見せる。かくして商業的な動機づけが、はるかに豊かな表象によって、覆い隠されるのではなく、裏打ちされるのである。というのも、その表象は読み手を、人類の大きな諸テーマ、つまりいつの時代にも快楽を人間存在の完全溶解になぞらえ、ある対象のすばらしさを黄金の純粋さになぞらえてきた人類の諸テーマそのものに参加させるからである。広告の共示的な言語活動は、その二重性のメッセージによって、買い手の人間に夢をとりもどさせる。夢は、なるほど、ある種の疎外(競争社会がもたらす疎外)であるかもしれぬが、しかしまた夢は、ある種の真実(詩の真実)でもあるのだ。 『記号学の冒険』(p. 74-75)
少々あまりにも無邪気にバルトの言葉は響いてしまうのだが、私が気になるのはやはり広告が消費者に提供する「夢」が「詩の真実」なのかどうかである。バルトはフランスを代表する象徴派の詩人マラルメなどについても文章を書いていたはずだから、なにがしかの答えは持っていたのかもしれない。現代詩を読むことの困難さや、それがための訓練の必要を思えば、おいそれと広告が与えてくれる「夢」と詩の真実が同じものとは私には考えられない。でもまあ彼の文学論も読み返してみてからでもいいかな、バルトが楽観的過ぎるのかどうかを決定するのは。