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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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ぜんぜん懺悔してないじゃん、って言われそう。
怒りの発露にこういったメディアを利用するのはよくないとは思う。
はっきりしておかないといけないのは「アイルランド歌謡」というものがポピュラー音楽研究としてアイルランドの大学レベルで可能になったのは、とくにSean O'Riadaを筆頭とした当時の学者兼ミュージシャンらがアイルランド国中の知られざるものも含めて体系化、楽譜化したことに直接な起源がある。それが大体70年代のこと。その頃のアイルランド(南の共和国のことね)の政治体制、また文化教育庁がこの調査、体系化の経済的な支援をしていた、と考えるのが自然である。経済的な支援はすなわちイデオロギー的な支援でもあることを見逃さないことが重要だ。当時のアイルランド共和国の反動的な政治・経済体制は疑う余地なく「カトリック・ナショナリスト」体制である。
したがってそもそも我々が「アイルランド歌謡」をリスナーとして聴く機会が増えたのも、学者としてそれを論じることが可能になったのもその文化ナショナリズムのおかげなのであり、その政治経済的、美学的なもろもろの総体を「政治」と私が呼んだものなのである。
要するに無意識に我々の欲望を無意識に操作するこの「政治」に安易に乗っかってはいけない、ということである。私がいらついたのはパネリストの皆さんが「無邪気に」知識を披瀝し、また語っていたからなのである。つまり「文化ナショナリズム」に端を発する「政治」圏域に包まれながら、そのことに無自覚だった。
無意識に、というのがポイントであって本人が善意でやっていたとしても(私は信じる気満々である)、この無意識の「政治」に無自覚だったとすれば、やはり咎なしではすまされない。倫理観に欠けると言わざるをえないのではないか。
さて司会と発表一人二役をこなしたS氏の発表(手短に)。
「歌のアイルランド化についてーーー'Shenandoah'を手がかりに」
発表はヴァン・モリソンの「シェナンドア」をCDで聴くところから始まった。最近私もよく聴く北アイルランド出身のシンガーである。この曲はチーフタンズのリーダーであるパディ・モローニの企画でもともとアメリカにあったシャンティー(水夫の歌)であった「シェナンドア」をヴァン・モリソンに委託して歌ってもらったもののようである。『ロング・ジャーニー・ホーム』というのがその企画アルバムだそうで、演奏にはチーフタンズのメンバーが加わっている。
さてS氏によると明らかにアイルランドを賛美するためのアルバムにこのおそらくアメリカ起源のシャンティーが選ばれているのは何故か、という問いが浮かぶ。ここまでのS氏の手順は(えらそうで申し訳ないが)間違ってなかったように思う。しかし疑問は呈するが、最後まで「アイルランド歌謡」を巡る「政治」、とくにその起源である文化ナショナリズムを断罪することはなかった。オープンエンディングである。しかも始末が悪いのは世界のポピュラー音楽の起源にアイリッシュ系アメリカ人をアフリカ系アメリカ人との競作であるかのように論じた批評家の文章を紹介しながらその浅ましい企てを断罪しなかったことである。
「文化ナショナリズム」を批判することは今回のテーマではなかった、と氏は打ち上げで語ってくれたが、そもそも今回のパネルが日本で、しかも学会という責任ある場所で可能になったのは「文化ナショナリズム」がそもそも起源にあって、学問レベルでもアイルランドの歌謡を論じられるような体制がアイルランドではもちろん、日本においても確立されつつあるからである。S氏がこの無意識の「政治」に無邪気に包まれている、言いかえれば加担してしまっている、と感じられたのは氏が議論をいい所まで行っておきながらオープン・エンディングにしてしまったからなのだ。
ヴァン・モリソンが素晴らしい歌手であることを私は否定していない。チーフタンズについてもそうである。しかしこの「政治」に自覚的にか、無自覚的にかは分からないが、これらのミュージシャンが係わってしまったことは批判されてしかるべきである、と私は考える。
そんなに批判したいんだったら自分で論文やら口頭発表とかでばんばんやればいいじゃない、と言われたが、日本アイルランド協会の主流派がこの「政治」に連座している(と私には見える)場所でどしどしやるのはどれだけ大変なことか、氏はぜんぜん分かっていない。私が去年「パンク」という最もエスタブリッシュメントから遠い(そうじゃない学会もあるが)題材に選んだのはこの「政治」に敏感だったからだし、そういうわけでささやかな抵抗は試みているのである。単にスティッフ・リトル・フィンガーズが好きだから題材にしたのではない。この巨大な「政治」に飲み込まれないため、抵抗するための戦略だった(もちろんこの戦略が間違っている可能性は否定しない)。
それを氏は完全に誤解した、今も誤解している。
世界のポピュラー音楽によるアイルランド化は「白人中心主義」という言説を広めかねない。だからこそやはり氏は発表で決然とこの流れを断罪すべきだった。
批判するのに名前を名乗らないのは卑怯だ、というのであればいつでも名乗ります。
怒りの発露にこういったメディアを利用するのはよくないとは思う。
はっきりしておかないといけないのは「アイルランド歌謡」というものがポピュラー音楽研究としてアイルランドの大学レベルで可能になったのは、とくにSean O'Riadaを筆頭とした当時の学者兼ミュージシャンらがアイルランド国中の知られざるものも含めて体系化、楽譜化したことに直接な起源がある。それが大体70年代のこと。その頃のアイルランド(南の共和国のことね)の政治体制、また文化教育庁がこの調査、体系化の経済的な支援をしていた、と考えるのが自然である。経済的な支援はすなわちイデオロギー的な支援でもあることを見逃さないことが重要だ。当時のアイルランド共和国の反動的な政治・経済体制は疑う余地なく「カトリック・ナショナリスト」体制である。
したがってそもそも我々が「アイルランド歌謡」をリスナーとして聴く機会が増えたのも、学者としてそれを論じることが可能になったのもその文化ナショナリズムのおかげなのであり、その政治経済的、美学的なもろもろの総体を「政治」と私が呼んだものなのである。
要するに無意識に我々の欲望を無意識に操作するこの「政治」に安易に乗っかってはいけない、ということである。私がいらついたのはパネリストの皆さんが「無邪気に」知識を披瀝し、また語っていたからなのである。つまり「文化ナショナリズム」に端を発する「政治」圏域に包まれながら、そのことに無自覚だった。
無意識に、というのがポイントであって本人が善意でやっていたとしても(私は信じる気満々である)、この無意識の「政治」に無自覚だったとすれば、やはり咎なしではすまされない。倫理観に欠けると言わざるをえないのではないか。
さて司会と発表一人二役をこなしたS氏の発表(手短に)。
「歌のアイルランド化についてーーー'Shenandoah'を手がかりに」
発表はヴァン・モリソンの「シェナンドア」をCDで聴くところから始まった。最近私もよく聴く北アイルランド出身のシンガーである。この曲はチーフタンズのリーダーであるパディ・モローニの企画でもともとアメリカにあったシャンティー(水夫の歌)であった「シェナンドア」をヴァン・モリソンに委託して歌ってもらったもののようである。『ロング・ジャーニー・ホーム』というのがその企画アルバムだそうで、演奏にはチーフタンズのメンバーが加わっている。
さてS氏によると明らかにアイルランドを賛美するためのアルバムにこのおそらくアメリカ起源のシャンティーが選ばれているのは何故か、という問いが浮かぶ。ここまでのS氏の手順は(えらそうで申し訳ないが)間違ってなかったように思う。しかし疑問は呈するが、最後まで「アイルランド歌謡」を巡る「政治」、とくにその起源である文化ナショナリズムを断罪することはなかった。オープンエンディングである。しかも始末が悪いのは世界のポピュラー音楽の起源にアイリッシュ系アメリカ人をアフリカ系アメリカ人との競作であるかのように論じた批評家の文章を紹介しながらその浅ましい企てを断罪しなかったことである。
「文化ナショナリズム」を批判することは今回のテーマではなかった、と氏は打ち上げで語ってくれたが、そもそも今回のパネルが日本で、しかも学会という責任ある場所で可能になったのは「文化ナショナリズム」がそもそも起源にあって、学問レベルでもアイルランドの歌謡を論じられるような体制がアイルランドではもちろん、日本においても確立されつつあるからである。S氏がこの無意識の「政治」に無邪気に包まれている、言いかえれば加担してしまっている、と感じられたのは氏が議論をいい所まで行っておきながらオープン・エンディングにしてしまったからなのだ。
ヴァン・モリソンが素晴らしい歌手であることを私は否定していない。チーフタンズについてもそうである。しかしこの「政治」に自覚的にか、無自覚的にかは分からないが、これらのミュージシャンが係わってしまったことは批判されてしかるべきである、と私は考える。
そんなに批判したいんだったら自分で論文やら口頭発表とかでばんばんやればいいじゃない、と言われたが、日本アイルランド協会の主流派がこの「政治」に連座している(と私には見える)場所でどしどしやるのはどれだけ大変なことか、氏はぜんぜん分かっていない。私が去年「パンク」という最もエスタブリッシュメントから遠い(そうじゃない学会もあるが)題材に選んだのはこの「政治」に敏感だったからだし、そういうわけでささやかな抵抗は試みているのである。単にスティッフ・リトル・フィンガーズが好きだから題材にしたのではない。この巨大な「政治」に飲み込まれないため、抵抗するための戦略だった(もちろんこの戦略が間違っている可能性は否定しない)。
それを氏は完全に誤解した、今も誤解している。
世界のポピュラー音楽によるアイルランド化は「白人中心主義」という言説を広めかねない。だからこそやはり氏は発表で決然とこの流れを断罪すべきだった。
批判するのに名前を名乗らないのは卑怯だ、というのであればいつでも名乗ります。
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