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「仮構と倫理ーー大江健三郎と三人の自死者について」。
『サブカルチャー文学論』の中でも出色の出来です。とても自称「オタク」代表の漫画原作者の文章とは思えない。
またまた大塚英志です。
かなりのページ数のエッセイであるが「三人の自死者」とは映画俳優・監督の伊丹十三、作家の三島由紀夫、文芸批評家の江藤淳のことである。
『文学論』自体が江藤淳の勧めで始めた文学評論だったようであり、その意味ではこの戦後日本文学の重鎮に対する感謝の念のようなものが全体に漂っている。実際のところ一漫画原作者と日本文学界の重鎮との邂逅というのはいつかはありえたかもしれないと思っていたが、すでに起こっていたのである。江藤淳の自殺(1999年)という衝撃の出来事が大塚の「文芸批評」という異種格闘技のような執筆を後押ししたことも確かであろう。
それでも大塚の批評の矛先が江藤淳の「文学」にまで鋭く向けられているのがすごい、というか緊張感がみなぎる。一旦は江藤の思想、「仮構」(それが小説世界であれ、なんであれ)と「現実」(それが戦後であれ、なんであれ)の間に生まれる軋轢というか齟齬に対して目をつむったり、割り切ってはならない、というどちらかというとありふれた思想をそのまま肯定する。しかし戦後日本のリアリティーの質が(大塚は1971年ごろを境に)決定的に変わってからはこの江藤の思想を全うすることが実に困難になった、と言う。具体的には近代以来続いてきたリアリズムに基礎を置く「小説」というものの不可能性が決定的に顕わになった、ということだ。
大塚は言葉を選んでおり、その点慎重だがありていに言えば「ポストモダン」ということになる。
大塚の議論を要約してしまうと仮構の「私」と現実世界の「私」の間にある齟齬を割り切ることなく「屈託」した三人の表現者が自殺に追い込まれ、「現実」を「文学」としてしてしか認識せず、両者の齟齬に「屈託」がない大江が生き残っていることに違和感を感じる、というものである。
映画監督の伊丹が三人の中に挙げられているところから「文学」と映像文化、ひいては「消費文化」に大塚が区別を設けていないところに「あーここまで批評は来たか」という感想を持つが、どちらにしても齟齬を生き抜くことが漫画家にとっても、映画作家にとっても、また小説家にとっても「倫理」だということだ。
ただし大塚は江藤の欺瞞にも目をつぶらない。江藤がアメリカ留学から帰国してしばらく経った頃、資産家である父親の信用にすがって金融機関から金を借りるエピソードが紹介されている。
「「個」として一定のルールの許にフェアーに「適者生存」を争っていくという江藤のアメリカで見出した原理は実はここで放棄されているのである。それ自体が仮構であることは議論の余地がないにしても、保守思想の拠り所である「大地と過去」の上に構成された「日本」に「拘束されること」と、父の信用で金を借りることが曖昧なままに混同されている。些細なことだが、ぼくはここに江藤、もしくは日本の保守思想の「弱さ」を見るのであり、それは柳田のいう「束縛」も、柳田家の養子となって夫人の閨閥に入る実際的な側面があったことを考え合わせる時、やはり江藤個人の問題にとどまることではない。「現実」に束縛されることが既得権の継承を現世的には意味し、しかし、「血縁」や「伝統」に束縛されることだとそれを言い換えるところに保守思想の隘路がやはりある。」(pp.655-656)
柳田國男まで出てきて文脈が分かり辛いかもしれないが、ここで大塚は日本の近代以降の「文学」のあり方を一刀両断にしてしまう。「既得権益」(資産家の家族にぶらさがること)を「伝統」に接木して「文学」の正統性を主張することの詐術が端的に断罪されている、と言ってよい。
私も柳田民俗学には相当お世話になったことを白状しておくが、大塚の議論には説得力があると言わざるを得ない。それが大方のサブカルチャー側からの「文学」への異議申し立てではあるとしても。江藤や柳田國男だけではなく、三島に対しても厳しい大塚ではあるが、もっと性質が悪いのが大江健三郎だというのが本論の主張である。必ずしも「表現」や「仮構」構築そのものを否定しているわけではない。モダニスト江藤淳の自己矛盾に陥りながらも現実と仮構の齟齬にのたうつ姿はやはり胸を打つ。
「仮構」に魅入られながらもその欲望をどうにか制御しようとした三人が自殺に終わったことはなおさら痛ましい。
個人的には三島の小説を大学に入る前後に熱中して読んだ私がおり、ほぼ10年前ほど前に大江の小説もかなり真剣に読んだ。私が彼らの「文学」を文学たらしめる巧妙なレトリックにいささかでもひっかっかっていたことは認めなければならない。「文学」の外側にはその詐術を見抜く感受性が育っていた、ということにちょっとした眩暈を感じている。
『サブカルチャー文学論』の中でも出色の出来です。とても自称「オタク」代表の漫画原作者の文章とは思えない。
またまた大塚英志です。
かなりのページ数のエッセイであるが「三人の自死者」とは映画俳優・監督の伊丹十三、作家の三島由紀夫、文芸批評家の江藤淳のことである。
『文学論』自体が江藤淳の勧めで始めた文学評論だったようであり、その意味ではこの戦後日本文学の重鎮に対する感謝の念のようなものが全体に漂っている。実際のところ一漫画原作者と日本文学界の重鎮との邂逅というのはいつかはありえたかもしれないと思っていたが、すでに起こっていたのである。江藤淳の自殺(1999年)という衝撃の出来事が大塚の「文芸批評」という異種格闘技のような執筆を後押ししたことも確かであろう。
それでも大塚の批評の矛先が江藤淳の「文学」にまで鋭く向けられているのがすごい、というか緊張感がみなぎる。一旦は江藤の思想、「仮構」(それが小説世界であれ、なんであれ)と「現実」(それが戦後であれ、なんであれ)の間に生まれる軋轢というか齟齬に対して目をつむったり、割り切ってはならない、というどちらかというとありふれた思想をそのまま肯定する。しかし戦後日本のリアリティーの質が(大塚は1971年ごろを境に)決定的に変わってからはこの江藤の思想を全うすることが実に困難になった、と言う。具体的には近代以来続いてきたリアリズムに基礎を置く「小説」というものの不可能性が決定的に顕わになった、ということだ。
大塚は言葉を選んでおり、その点慎重だがありていに言えば「ポストモダン」ということになる。
大塚の議論を要約してしまうと仮構の「私」と現実世界の「私」の間にある齟齬を割り切ることなく「屈託」した三人の表現者が自殺に追い込まれ、「現実」を「文学」としてしてしか認識せず、両者の齟齬に「屈託」がない大江が生き残っていることに違和感を感じる、というものである。
映画監督の伊丹が三人の中に挙げられているところから「文学」と映像文化、ひいては「消費文化」に大塚が区別を設けていないところに「あーここまで批評は来たか」という感想を持つが、どちらにしても齟齬を生き抜くことが漫画家にとっても、映画作家にとっても、また小説家にとっても「倫理」だということだ。
ただし大塚は江藤の欺瞞にも目をつぶらない。江藤がアメリカ留学から帰国してしばらく経った頃、資産家である父親の信用にすがって金融機関から金を借りるエピソードが紹介されている。
「「個」として一定のルールの許にフェアーに「適者生存」を争っていくという江藤のアメリカで見出した原理は実はここで放棄されているのである。それ自体が仮構であることは議論の余地がないにしても、保守思想の拠り所である「大地と過去」の上に構成された「日本」に「拘束されること」と、父の信用で金を借りることが曖昧なままに混同されている。些細なことだが、ぼくはここに江藤、もしくは日本の保守思想の「弱さ」を見るのであり、それは柳田のいう「束縛」も、柳田家の養子となって夫人の閨閥に入る実際的な側面があったことを考え合わせる時、やはり江藤個人の問題にとどまることではない。「現実」に束縛されることが既得権の継承を現世的には意味し、しかし、「血縁」や「伝統」に束縛されることだとそれを言い換えるところに保守思想の隘路がやはりある。」(pp.655-656)
柳田國男まで出てきて文脈が分かり辛いかもしれないが、ここで大塚は日本の近代以降の「文学」のあり方を一刀両断にしてしまう。「既得権益」(資産家の家族にぶらさがること)を「伝統」に接木して「文学」の正統性を主張することの詐術が端的に断罪されている、と言ってよい。
私も柳田民俗学には相当お世話になったことを白状しておくが、大塚の議論には説得力があると言わざるを得ない。それが大方のサブカルチャー側からの「文学」への異議申し立てではあるとしても。江藤や柳田國男だけではなく、三島に対しても厳しい大塚ではあるが、もっと性質が悪いのが大江健三郎だというのが本論の主張である。必ずしも「表現」や「仮構」構築そのものを否定しているわけではない。モダニスト江藤淳の自己矛盾に陥りながらも現実と仮構の齟齬にのたうつ姿はやはり胸を打つ。
「仮構」に魅入られながらもその欲望をどうにか制御しようとした三人が自殺に終わったことはなおさら痛ましい。
個人的には三島の小説を大学に入る前後に熱中して読んだ私がおり、ほぼ10年前ほど前に大江の小説もかなり真剣に読んだ。私が彼らの「文学」を文学たらしめる巧妙なレトリックにいささかでもひっかっかっていたことは認めなければならない。「文学」の外側にはその詐術を見抜く感受性が育っていた、ということにちょっとした眩暈を感じている。
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