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N.アイルランド・フィルム・フェスティバルが始まった。
http://www.niff.jp/

昨日(210日)3本の映画を観てきました。
「おやすみベイビー」(Hush-a-bye Baby)(1990)
「シェルショック・ロック」(
Shellshock Rock)(1979)
「弾道の詩行」(
Lines of Fire)(2000)

「おやすみベイビー」(ネタばれ注意

もともとはテレビ放送(イギリスのチャンネル4)用に製作されたものだが、評判を呼び世界でも劇場で公開していたみたいだ。もちろんそれでも日本では今まで未公開である。

不満ではないが「おやすみベイビー」の「ベイビー」は「あかちゃん」でもよかった気がする。だってなんだか「ベイビー」って矢沢の永ちゃんみたいだし・・・。

昨日は映画上映とともにこの映画を監督したマーゴ・ハーキンさんの「トーク」があり、幸運なことに晩飯をスタッフとともにご一緒させていただいた。

さてこの映画に関しては私は英文学者として、ポピュラー音楽研究者としても数年前から興味があった。詩人シェイマス・ヒーニーの詩が引用されていること、歌手シニード・オコナーが出演していること、これらが私の興味を引いていたものである。この映画を知ったのはアメリカ人のアイルランド文化研究者カリングフォード(Elizabeth Butler Cullingford)の論文「シェイマスとシニード、「リンボー」から「おやすみベイビー」を経由してサタデー・ナイト・ライブへ」('Seamus and Sinead: From 'Limbo' to Saturday Night Live by Way of Hush-a-Bye Baby')である。

監督本人(マーゴと呼ばせてもらいます)が語っていたようにテーマがテーマだけにフェミニスト的な視点で作られてはいるのだが、フェミニストの友人からは「甘い」と言われたようだ。カリングフォードもまた自らを「穏健なフェミニスト」であることを告白しているからこの二人には通じるものがある。ラディカルにならず多数の視聴者、読者に向けて撮っているし、書いている。一方でシニードは相当ラディカルなパフォーマーなのであるが、マーゴ、カリングフォードの二人ともお母さんのような優しい眼差しでシニードを見守っている感じがある。マーゴに拠ればシニードには楽曲を提供して欲しいと申し出ただけだったらしいが、脚本を読んだシニード本人から強く出演したい、と言ってきたそうだ。

ちょっと15歳くらいの役(「シニード」そのまんま)は無理だろ、と観ながら思ったが、撮影当時彼女は24歳くらいではなかろうか。色っぽすぎです、正直。

さてそういった細かいリアリズムはこの映画に関してはどうでもいいことではある。カリングフォードがこの映画とシニードを評価するのは「アイルランド人女性」という戦略的な視点ゆえであった。

Nevertheless, as long as females have babies and males do not, an Irish "woman" is someone whose womb (if she is fertile and Catholic) is susceptible to male clerical control. If any country requires a dose of strategic essenntialism (a tactic Butler distrusts), it is surely Ireland. (p. 245)

「それにもかかわらず女性があかちゃんを産み、男性が産まない限りにおいて、アイルランド人の「女」とは自らの子宮が、(もし彼女が妊娠ができ、カトリックであればだが)、男性の聖職者によって管理される可能性が大きい人のことである。もし一服の戦略的本質主義(バトラーは信用していない作戦ではあるが)が必要とされる国があるとするならばそれは確かにアイルランドである。」

バトラーとは『ジェンダー・トラブル』などの著書で有名なアメリカのフェミニスト理論家ジュディス・バトラーのことだが、バトラーが「女」という言葉そのものが持つ生物学的な決定論をも厳しく退けるのに対してカリングフォード(やマーゴ)はまさに「穏健な」フェミニストと言ってよい。戦略的に「女性」を固定化(本質化)して描く必要があるのがアイルランドなのだと言う。アメリカではダメだとしてもアイルランドでは社会的な正義が本質主義の陥穽よりも優先する、と。したがって穏健なのである。

「子宮が男性聖職者によって管理される」というのは特に80年代までのとくにカトリック教会における妊娠中絶のタブー視、またアイルランド共和国政府における中絶禁止の法律化、を指す。その結果原因が自らの不注意である場合も含めて少女が妊娠した時に人知れず子供を生み、赤ちゃんを殺してしまった場合もあれば、自らも衰弱死したり自殺する事件が頻発した。それが1983年と1984年の頃に社会問題化したわけだ。1982年の国民投票で中絶を非合法化することを選択した大人のカトリック住民にも責任があるが、カトリックの枢機卿や司祭の法外な権力こそがこの問題の原点なのではないか、と言える。シニードはのちにカトリック聖職者の「子供虐待」を弾劾することになるのだが、政教分離が事実上守られない政府に対する不信感をシニードのようなロック・ミュージシャンが持っていたことは注記に値する。

私個人としては映画を観て「これはこれでいいのではないか」と思う。アイルランドにラディカルなものを要求しなくても、すでに北アイルランド紛争自体がラディカルだったわけだから、もういいでしょう、となる。おそらくアイルランドの魅力は他の欧米諸国にはみられなくなった穏健さ、温和さ、だろうからである。

でもシニードのラディカルさは別格というか、フェミニズムだけでは捕らえきれない質のものである。スター表現者であり、パンクにつながるミュージシャンであることをちゃんと考える必要がある。文化産業とシニード個人の思想とは切り離して考えられない。

さて他の2本の映画については次回に!

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