忍者ブログ
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[08/01 くっさん]
[07/29 kuriyan]
[06/10 くっさん]
[06/10 くっさん]
[06/10 山田]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
Kussan
性別:
男性
自己紹介:
研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
バーコード
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
[1] [2]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

翻訳の仕事というのはなんとも報われない、

大体下働きの者に任せるか、完璧な翻訳ソフトができたらいいのに、とか考えている。コミュニケーションツールとしての言語というのが定着しているから、そんな透明な言語の理想が全体主義に近い考えだということに気付く人が少ない。

デリダを読め、というか酒井直樹を読め、というべきか。

昨日は参加してから5年ほど経つW.B. Yeatsの読書会。

Among School Children,その一節、

What youthful mother, a shape upon her lap
Honey of generation had betrayed,
And that must sleep, shriek, struggle to escape
As recollection or the drug decide,
Would think her son, did she but see that shape
With sixty or more winters on its head,
A compensation for the pang of his birth,
Or the uncertainty of his setting forth?

これ日本語に訳せる人は相当なもの。こんなの英語じゃない、というのもまあ分からんじゃない感想。

もちろん韻を踏むために文の構造が複雑になっているのもある。ちなみにabababcc。

これを普通の文章に直してみる、できるだけ。

What youthful mother, with a shape upon her lap that honey of generation had betrayed and that must sleep, shriek, and struggle to escape, would think her son, if she only saw that shape with sixty or more winters on its head, a compensation for the pang of his birth or the uncertainty of his setting forth?

さてこれでも訳するのは億劫だ。一つには仮定法に気付いても "honey of generation" とか "shape" とか、"with sixty or more winters on its head" とか何のことか正しく想像できなければならない。

ちなみに "with sixty or more winters on its head" は「六十の、またはそれ以上の年月を経て頭に白髪が覆っている」ということね。「六十の冬」を「六十年年取って生えた白髪」と想像力を逞しくして読まねばならない。

普通の英文に直したものを単純に(ちょっとはしょって)解釈すると、

今は膝に幼児を抱えている若い母親が、もし六十年年取った白髪頭の子供の姿を見ることができるなら、生みの苦しみや別離の不安などの代償(埋め合わせ)として自分の息子を考えるだろうか、いや考えないだろう。

これでもなんのことやねん、と言われるかも知れん。やっぱり文学はいらんわ、と。イエーツは「美」に取り付かれていた人だから60を過ぎたさえない老人になった自分が耐えられない。それが気持ち悪いわ、と言われるかもしれない。確かに・・。

でも「言葉」って想像力を喚起し、意味を超えた感情や怒りを伝えるものだと思うのですよ、「何を言っているのか」ではなく「何でそんな風に語るのか」が重要っていうか。

「出生の蜜」("honey of generation") とか「想起」("recollection") という言葉にはネオ・プラトニズムの影響が垣間見える。人が生まれてくるこの世は「仮象」に過ぎず、したがってこの世に生まれてくることは「裏切られた」結果であり、実在は永遠普遍のイデア界にこそある。「形」("shape") も後の連で出てくる「像」("image") もプラトンの、またプロチノスの「形相」との連想から使われていることは明らか。

だから何?って言わんといてや。

PR

ジョイスへの回帰を(ヨーロッパ)文学の伝統への回帰と拡大解釈してもらっては困る。私にとっては1920年代において大方文学は最高潮に達し、しかも同時に終焉したのだ。詩はT.S.エリオットの「荒地」とともに、小説はジョイスの『ユリシーズ』とともに、また少し遅れて演劇はS.ベケットの諸作品とともに。

だからジョイスへの回帰は死亡診断 (post-mortem) を遂行するための回帰である。

文学の「終わり」(end) を私は「目的=終わりの終わり」と少々レトリカルに論文(「詩作=反復とテクノロジー」)で定義した。その心は我々と同時代の文学が示しているのは衰弱していく、つまり緩やかに自然死へ向かう文学以外の何ものでもない、ということである。ただしこのことは文学研究にもはやなすべき仕事がない、ということを意味しない。そうではなくてむしろ文学研究には文学の「死亡診断」というとてつもなく重要で、粘り強い、時間の掛かる作業が残されている、ということである。

ベケットの『マローンは死ぬ』という小説以来文学は、文学の死を劇化するという所作を繰り返すこと以外のことをしていない。私にはそう思える。

日本の状況はどうかというと、町田康の小説に特徴的だが、やはり文学の死以外の内容があるようには思われない。

近代文学の到達点であるとともにその決定的な死であるモダニストの文学にはだからこそ回帰する価値がある。近代文学の諸テーマは今ではポピュラー文化(消費文化)が担っており、モダニストの極端な美学もまたポピュラー文化(特にサブカルチャー)によって引き継がれている。T.アドルノがジャズに、またハリウッドに異議を唱えたのはポピュラー文化があまりにも易々とモダニストの美学を商品化することに成功していたからであったことを忘れてはならない。アドルノにはジャズやハリウッド映画に「精神的な労働」が希薄だと感じられた。どちらにしてもモダニスト以降の文学にできることは文学の死を如何に生き抜くか、という主題しかないのである。

したがって文学外の人びとの間でジョイスやベケット、またイエーツが人気なのはひとえに文学の人気というよりも、いやその栄光とともに、その死を体現して見せたことにもあるのではないか(消費文化の勝利!)。

何故文学がモダニストにおいて絶頂を迎えるとともにその終焉を決定づけたか、については社会学的な説明が一つ提案されている。つまり1920年台における古典的な自由主義の終焉である。文学を社会学的に解剖してみせた先駆者の一人フランコ・モレッティは、少々カール・ポランニーの理論を真に受けすぎの感もあるが、どちらにしても文学の高揚とその終焉を文学を取り巻く社会それ自体の「危機」の反映として捉えてみせた。市場の自動調節機能とその社会の有機的統一に果たしたその役目の衰退である。「20世紀の最初の数十年の間に社会はその内在的な合理性を失った」(p.225) とされる。モレッティに拠れば「荒地」においてエリオットは「神話的方法」を無理やり設定することによって断片化していく作家主体と作品に対して合理性を保証しようとしたのだ。神話の利用はエリオットのものとは異なっていたとはいえ、ジョイスはジョイスで『ユリシーズ』において聖三位一体の神秘をといった首尾一貫せぬ寓意を混ぜ込まざるをえなかったことを想起しよう。エリオットは神話となった詩が社会を変革しうると不幸にも信じたが、ジョイスはそのことすら信じていなかった。ここから帰結するのは文学の社会からの徹底的な乖離であり、政治経済や歴史への徹底的な「無関心」である。合理性を失った社会の鏡像ではあるが、もはや独立した鏡である。文学はついに社会という自らの支えを失ったのである。一方ではマラルメが半世紀も前にフランスで成し遂げていたこと、社会という参照項を持たない「純粋詩」という理想がジョイスにおいて達成されたとも言えるが、それは社会的には文学の死以外の何ものでもない。

フランコ・モレッティ『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス』(新評論、1992)。

ロラン・バルト、

この人やっぱ資本主義消費社会を心から楽しんだ人だと思う。「ジュルヴェのアイスクリーム」もそうだけど、この人広告を論じるときは本当に楽しそう。記号論を広告、服飾モード、等の商品関連の分析に適用したのは慧眼というか、早かったと思うが、何というか学者肌ではないんだな。読み易くて面白いんだが、厳密に言うと何を言っているのかよく分からない。直感の冴えというか、嗅覚がいいというか、「作者の死」とか気の利いたフレーズがぽんぽん飛び出してくる。これは一種の才能なのだが、彼の著作が一体誰にもっとも役に立ったかというと広告業を筆頭にした文化産業の人なんではないかな、と思う。でも現代思想にとっては必要なトリックスターだったのだと思うし、フランス人に愛されてるのも分からないではない。フランスはバルト流に資本主義を謳歌するってのはそのマルクス主義的な伝統からすると難しい知識人の立場だから。

マラルメはバルトの弟子クリステヴァの十八番でした。加えてジョイスもね。

ジョイスを巡ってクリステヴァやらデリダ、ラカンがあまりにも発言するものだから研究者としては地獄のような毎日でした。ジョイス読むだけでも大変なのに、ジョイス研究者が軒並みラカンやらデリダ、バフチンの理論を援用して論文書いてたから、なんだか現代思想の解説書を読んでるのか文学研究書読んでるのか分からない状況にあった。それがつらくなっていったんジョイス研究から手を引いたんだけどね。今から思うと糞のように難解なだけの研究書を高い金出して買って、読んでいたのがばかばかしくさえある。ジョイスに係わるのがいつの間にか楽しくなくなっていた。

さて広告の起源というか機能に関して、ジョイスの『ユリシーズ』に関連して確認しておきたいことがある。この小説(「小説」ではないという人もいる)の主人公は言うまでもなくジョイスの若き自画像と云われている Stephen Daedalus とユダヤ人のプチブル Leopold Bloom である。スティーヴンはあまりにも青い文学青年なだけにちょっと感情移入するのが憚れるが、私はどちらかというと中年の小市民ブルームの方が好きなのである。小説は一日のどうでもいいような出来事を含めて異常な数の語りと文体を駆使して書かれているのだが、このブルームときたら女のことと金儲けのことしか考えていないのである。しかもことごとく女にも金儲けにも失敗する。それも効果的で革命的な「広告」を発明することや、無駄な消費のみに熱心であって、生産の現実とか労働者のことはほとんど理解できない。そういう訳で『ユリシーズ』を歴史的に極めて早い消費社会観察の書と考えてもよいと思う。

さて広告が何故生まれてきたか、広告は社会の中でどのような機能を歴史的に果たしているのかを考えるとき、市場経済の法則、つまり需要と供給のバランスが定期的に壊れてその結果商品が大量に余って流通しなくなる、そしてインフレ(または恐慌)が起こる、という現象に求めるのは今でも有効だろうか。何故そうなるのかのメカニズムは私にはよく分からないが、大量に作られてしまう商品を売るためにそれなりの需要を増やす戦略が生産業者側に必要になる。そこで広告の出番である。市場経済の自動調整機能が幻想に過ぎないことが明白になった以上、人工的に需要を作り出さなければならない。それが定着したのが20世紀初頭の20年間だったとフランコ・モレッティという学者(『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス』)は述べている。

ブルームは地元ダブリンの新聞社で働く広告取りであった。

『ユリシーズ』の冒頭(「テレマコス」)でスティーヴンの脳裏をよぎるオックスフォード大学の光景。スティーヴンが仮住まいしていたマーテロ塔(現在はジョイスタワーと呼ばれている)に、少しだけ居候しているオックスフォード大の卒業生でイギリス人のハインズという登場人物がいる。このイギリス人の寝言がうるさいというので、これまた居候のマリガンとスティーヴンが屋上で語り合っている場面である。「新入生いびり」というのは何処にでもあるらしい。今度うるさかったらこっぴどくオックスフォード式にいびってやればいい、と言うマリガン。マリガン自身もオックスフォードに暫くいたことがある故にスティーヴンは幾分「アイルランド人」としての誇りを傷つけられた気がするのである。侵略者たち・・・


     Shouts from the open window startling evening in the quadrangle. A deaf gardener, aproned, masked with Matthew Arnold's face, pushes his mower on the sombre lawn watching narrowly the dancing motes of grasshalms. 

     To ourselves .... new paganism .... omphalos.                 (Ulysses, p.7)

 開いた窓から漏れて来る叫び声が中庭に下りた夕暮れを驚嘆させる。エプロンをして、マシュー・アーノルドのお面を被った耳の聞こえない庭師が、薄暗くなった芝生の上で草刈り機を押す、芝の茎の揺れる微塵を細い目をして眺めながら。

 我々の手に・・・新しい異教主義・・・「オンファロス」。


まあキャンパス内の寮を想像すればいいんだけど、イギリスの寮生活というとかつては全寮制。ルパート・エヴェレットが主演したイギリス映画 Another Country を思い起こせば、状況は分かりやすいと思う(古いかな?)。やはりこの映画にも濃厚、というか「売り」だったというか、同性愛の雰囲気が感じられる。寮の規律を守るために上級生が規律を乱した下級生のパンツを脱がして、鞭打つとか・・・。『アナザー・カントリー』では同性愛とマルクス主義に目覚めた美青年、というのが出てきた覚えがある。地元のダブリン大学出身のスティーヴンには、侵略者イギリス人が男の同性愛とアーノルドの「新らしい異教主義」等のスローガンと共にイメージされているわけである。「我々の手に」はアイルランドのナショナリスト党Sinn Feinが、また「オンファロス」はギリシャ語で「臍」の意で、これは「マーテロ塔を世界の中心とす」くらいの意味。ホメロスの『オディッセイア』への言及である。このようにイギリスへの劣等感、敵意、アイルランド人としての自負、古代ギリシャへの憧れ、などがスティーヴンの意識の中でない交ぜになっている、と読める。

James Joyce, Ulysses (New York: Vintage, 1986)

忍者ブログ [PR]