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初回は研究ノートということで・・・。

Zygmunt Bauman, Liquid Modernity (London: Polity P, 2000)

Baumanは著名な社会学者であり、必ずしも私の専門からすれば読む必要のない本であるが、「流動化」の概念を自分のモノにしたいこと、グローバル化の有力な観方を知っておく必要から読み始めた。私が読んだことのある社会学の本といえば10年ほど前にイギリスで読まされたAnthony Giddens、Ulrich Beck、Scott Lash共著のReflexive Modernizationくらいであった。たしか向こうの修士論文でLashの文章を引用した記憶がある。私が在籍してたのが文学研究科であり、しかもカルスタ (cultural studies) とポスコロ (postcolonial studies) を短期間に都合よく勉強できるという、まあちょっと何でもありの環境でした。それにしてもGiddensやBeckの文章の面白くないことといったら、英文学プロパーの私にはつらいとしか言いようのないものでした。

さてBauman。まあ当時から名前くらいは知っていたが、私には関係ないかなとか思ってこれまで読みませんでした。今回読み始めて感じるのはやっぱ面白くないなー、である。まあこれ教科書的なものだから仕方ないというか、多分ケース・スタディーなどを聴いたり、読んだりすれば面白いはず、と思うのである。まあそういうわけで、半分以上「お勉強」ということにして、文学者プロパーならではの「引っ掛かり」をノートにしたためようと云う次第。

Forward: On Being Light and Liquid (序、軽いことと液状であること)

「流動化」という日本語はBaumanの場合 "liquidation" ということになろうか。普通なら「液体化、液状化」という訳語が当てられるべきだろうが、どうだろう?さて私が「引っ掛かった」のは次の一節。

 


   The contemporary global elite is shaped after the pattern of the old-style 'absentee landlords'. It can rule without burdening itself with the chores of administration, management, welfare concerns, or, for that matter, with the mission of 'bringing light', 'reforming the ways', morally uplifting, 'civilizing' and cultural crusades.  (p.13)

 

Baumanはここでグローバル化時代のエリートの在り方を述べているのであるが、そこで近代のそれまでのエリートの在り方との対比を際立たせるために言及されているのが「不在地主」('absentee landlord')なのである。「不在地主」は特に16世紀、17世紀のアイルランドにおいて歴史的な役割を果たしたことをBaumanが知って書いているかは分からないが、「不在地主」とくればやはりアイルランドのことを忘れるわけにはいかない。イギリス生まれの小説家Maria Edgeworth (1767-1849) は父方の祖先がアイルランドに広大な土地を持っていたことから、14歳以降はそこに定住したそうである。したがって彼女の小説のほとんどはアイルランドで書かれたのである。父方の祖先はその土地を16世紀か17世紀にイングランドの皇室から拝領したようであるから、それまではカトリックの人々の土地であったはずである。イングランドの皇室はイギリス国教会をアイルランドに根付かせるためにカトリックの地元民を冷遇したのである。私自身がEdgeworthの小説を読んだことがあるわけでないので心苦しいが、この前聞いた研究発表を聞く限りでは「不在地主」の家系を題材にした小説を得意としていたらしい。本人はイングランドなどの都会で生活し、アイルランドの土地を農民などに貸すなどして収益を得ていた社会階層がいたわけである。その土地の中心には広大な邸宅("Big House"と俗に呼ばれる)があって、時々帰ってきては広大な領地をそこから見回りに出掛けていたようである。私が興味があるのは、Baumanの一節にあるように、これらのエリートは「遠く」にいながら領地に絶対的な力を及ぼすシステムを確立していたことである。地元住人や土地の「管理」、「経営」、「福祉」等の「退屈な仕事」は現地人から選んだ使用人にほぼ任せるようになっていった。ただEdgeworthのような地主の中にはアイルランド住民の生活に干渉し、「光をもたらす」という啓蒙の使命と、地元人の「道徳の向上」を忘れることなく努めていたのである。それが18世紀後半から19世紀のこと。

さて以上のことから私が注意しておきたいことはイギリスにおける小説の勃興がEdgeworthのような「不在地主」で比較的暇のあるエリートによっても担われていたこと、「文学」としての小説一般は「啓蒙」をその使命としていたこと、この二つの点である。「理性」を野蛮人のアイルランド・カトリック教徒に教え、根付かせること。これは議論の余地のあることではあるが、アイルランド文学を支えてきたのは歴史的にみればこれら「不在地主」を含む「アングロ・アイリッシュ」と呼ばれる階層の作家たちであった。

Baumanによれば現在のグローバル化時代におけるエリートは啓蒙思想なき「不在地主」のようなものであり、「管理」や「経営」さえも末端の個人に委ねているような階層の人たち、ということになる。「土地」はもっとも「流動化」に反する存在でもある。面倒なのはアイルランド文学においては現在でも「土地」が重要な要素であり続けていることだ。それがアングロ・アイリッシュ文学の伝統だからである。

さてそれでは「流動化」が進んだアイルランドに新しい「文学」が生まれる素地があるのかどうかだ。それが私の今の関心のあり方である。「流動化」をその本質とするような文学!!

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