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日本アイルランド協会全国大会が滋賀大学で先週の土・日にあった。私は日曜日に発表させてもらった。あんまり大声では言えないのだが、7月に「カルタイ」で発表したものをもう少し文学色を強くして、極力むずかしい理論は省くつもりであった。聴衆の中にいわゆる「文化研究」者はほとんどいない、と判断したからだった。この学会の主力は歴史学と文学であり、とくにここの文学研究者にはイエーツ、ヒーニー、等の現代詩研究者が多い。私自身ジョイス研究以来、現代詩研究に従事していた。さて、そういうわけで「パンク」を含めたサブカルの説明は手短に済ませるつもりだったのだが、やっぱり引っ掛かってしまった。私は「パンク」を記号論のレヴェルにおいては価値があるものの、文学言語としては価値がないことを認めざるをえなかったわけであるが、記号論の(手短な)導入は聴衆を少々混乱させたようだ。私としては文化産業の論理として、言語の使用がなされる場合でも、作家の意図に根拠を置いたり文学の伝統をその価値の源泉としたりせず、言語の記号的な論理が優先される、と言いたかったわけである。もちろん、文学の論理を言語とし、市場の論理を記号とすることには議論を分かり易くする意図が私にあったからだが、この二項対立に絶対的な自信があったわけではない。

(文化)市場の論理を記号として提出するためにマスメディアの媒介性を強調することになったのだが、今回新しく補完した議論は、

サブカルチャーの一つの源泉として、18世紀末から20世紀20年代くらいまでの「ダンディー」に言及した(とくにオスカー・ワイルド)。

パンクの先駆者として「ダダ」に言及した(その神聖冒涜的な言動、作品など)。

この発表をするまで忘れかけていたのだが、というかDick Hebdigeを読み直して思い出したのだが、文学と社会学を軽やかに行ったり来たりして一世を風靡した批評家にロラン・バルトがいた。文学研究においては80年代、90年代初頭までは記号論は有力な研究方法論の一つだったはずだが、大方それ以降は消えていった。代わりに社会学のメディア論やカルスタが記号論を継続していった、と思う。現在は再び文学と社会学メディア論は別々の道を歩んでいるように私には見える。

さてバルトの小論集『記号学の冒険』を15年くらいぶりに手に取った。文学と社会学をどうやって軽やかに行ったり来たりできたのか確かめたくなったからである。ジョイスとセックス・ピストルズを同時に論じることは本当に可能なのか、文学と消費文化はどう出会えばいいのか、そういうことだ。

「広告のメッセージ」

バルトはこの小論で広告の論理を言葉の簡単な分析を通して明らかにしようとしているのだが、彼が挙げている例を見てみよう。

「ジュルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」

ジュルヴェはフランスの食品メーカーのブランド名らしいが、これは広告の宣伝文句(つまりコピー)。バルトはこの宣伝文句にはメッセージが二重化されている、という。一つは字義通りのメッセージであり、「ある種のアイスクリームの摂取が、おいしさの効果によってまちがいなく全身の溶解を引き起こす」である。この場合記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)はメッセージの元で齟齬がなく、「あらゆる言語活動が<翻訳する>ものとされている現実との関連において」外示のメッセージとして機能している。というか、この宣伝文句のメッセージこそが記号内容(シニフィエ)である。

ところが当然であるが、我々はこの宣伝文句を上のように文字通りに理解しはしない。さてバルトは上の第一のメッセージとは関連はしているが別の論理で、「ジュルヴェはアイスクリームのうちで最高である」という第二のメッセージに苦もなく到達するという。それをバルトは「共示」(コノテーション)のメッセージと呼ぶ。つまり広告の言語はどの商品を売るにしても同じ一つのことしかメッセージとして持っていないということ。「この商品を買ってください」である。バルトは第二のメッセージは第一のメッセージ(シニフィアンとシニフィエの結合体)を記号表現として成り立つという。したがって「ジュルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」はそれ自体がシニフィアンとなり、「ジュルヴェはアイスクリームのうちで最高である」というシニフィエがメッセージとして読み手に伝わるわけである。

要するにバルトはどのような記号内容(シニフィエ)も記号表現(シニフィアン)に転化しないものはない、と主張してシニフィエを構成しがちな普遍的な理念を相対化する。したがって記号表現の論理をこそ研究すべきである、と。しかしちょっと待て、そうなると「この商品を買ってください」というのが唯一ではないにしても最強のシニフィエということになるんじゃないかな。それが資本主義の世界に生きる我々の宿命か?


第一のメッセージは、第二のメッセージの打算的な目的性、その主張の根拠のなさ、その威嚇的説得のぎこちなさを取りのぞく。平凡な勧誘(買ってください)のかわりに、アストラやジュルヴェを買うのが自然であるような世界を見せる。かくして商業的な動機づけが、はるかに豊かな表象によって、覆い隠されるのではなく、裏打ちされるのである。というのも、その表象は読み手を、人類の大きな諸テーマ、つまりいつの時代にも快楽を人間存在の完全溶解になぞらえ、ある対象のすばらしさを黄金の純粋さになぞらえてきた人類の諸テーマそのものに参加させるからである。広告の共示的な言語活動は、その二重性のメッセージによって、買い手の人間に夢をとりもどさせる。夢は、なるほど、ある種の疎外(競争社会がもたらす疎外)であるかもしれぬが、しかしまた夢は、ある種の真実(詩の真実)でもあるのだ。   『記号学の冒険』(p. 74-75)

少々あまりにも無邪気にバルトの言葉は響いてしまうのだが、私が気になるのはやはり広告が消費者に提供する「夢」が「詩の真実」なのかどうかである。バルトはフランスを代表する象徴派の詩人マラルメなどについても文章を書いていたはずだから、なにがしかの答えは持っていたのかもしれない。現代詩を読むことの困難さや、それがための訓練の必要を思えば、おいそれと広告が与えてくれる「夢」と詩の真実が同じものとは私には考えられない。でもまあ彼の文学論も読み返してみてからでもいいかな、バルトが楽観的過ぎるのかどうかを決定するのは。

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