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@aag9393: 要となるギャグが悉く「不気味なもの」であるのも松本映画の特徴と言えるかな。『R100』ではSM嬢に蹴られたりした後の顔がぽわーんと発光して至福の顔になる場面。『しんぼる』でなら松本演じる主人公がスイッチを押すとめちゃ弱いルチャリブレレスラーの首が伸びて、

@aag9393: 敵味方関係なくノックアウトしてしまう場面。どちらもCG技術なくしては作れないギャグだが、どちらも極めて「不気味」なんだな。いわゆるライブのコントでは再現できないギャグであって、だから『ガキの使い』や『ごっつええ感じ』の笑いを期待していたファンはがっかりしたのかもね。

@aag9393: ぼくはめちゃ笑ったけどね。

@aag9393: あとライムスター宇多丸の映画批評に特徴的だけど、監督の人生観や世界観といったものを映画に持ち込むのを嫌がる人が多いなあ、と。確かに小津安二郎や黒沢のような映像作家の時代は終わってるとは思うけど、だからといってやっちゃダメなわけじゃない。

@aag9393: やれ独りよがりだの、独我論的だの言って批判するけど、そうかなあ?映画は作家ないしは監督の独占物じゃない、てのはそう思うけど、ストーリー含めてカット割その他をほぼ合議制 (?) またはマーケットリサーチに基づいて作るようなハリウッド映画が資本で圧倒してるだけじゃん。

@aag9393: 自覚がある、ないに関わらず、社会全体に浸透しているニヒリズムや個々人の存在の根っこに必ずあるニヒリズムを「見ない」ことにして、または否認することで映画を含めたエンターテインメントが成り立っている、と言うのならそれでもいい。松本人志はその掟を破って卑怯だ、ということにもなる。

@aag9393: そういった暗黙の了解の上で「伝わる」小説を、映画を、音楽を作り出し、批評はただそういった作品のみを評価すべきだ、というのであれば、勝手にそうやってればいいけど、ぼくは降りる。熱血や親子愛を松本人志が描けるわけないじゃん。

@aag9393: みんながみんな自分の存在の核にあるオウム的なものを直視して生きていかなければいけない、と言いたいわけじゃない。滑稽でおぞましいのがオウム的なニヒリズムの特徴なんでね、できればそんなんじゃなくてスマートで爽やかに生きていきたい、てのが本音でしょ?そりゃそうだよ。

@aag9393: ビックリするくらい『大日本人』が面白くなかったんで舐めてましたわ。もう一回見直さないと。幼稚さ、ギャグのつまらなさ、ストーリーのつながりの悪さ、それらがすなわちオウムを生む戦後日本と日本人のニヒリスティックな表現だと考えれば納得できる。意識的に松本がそうしたとは思わないが、

@aag9393: 松本の笑いの本質がニヒリズムにあるというぼくの仮説が正しければ、けっこう強烈なメッセージを発していると言える。
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ちょっと考えがまとまってきたので、私のツイートを時系列に並べておく。

ライムスター宇多丸の映画レヴューが小気味いい。松本人志と品川ヒロシの映画を酷評しまくり(笑)。言ってることほぼ正しい。

あれ?意外と松本人志の『R100』面白かったぞ。ストーリー展開にはそりゃ無理あるし、メタレベルで作品をわざわざ酷評して見せたりしてあざといと言えば確かにそうだが、従来の映画とも純然たるコントとも言えない独自の世界があるように思ったけどな。

ちょっと軌道修正。もう一回ライムスター宇多丸の映画評を聴いてみよう。

『R100』
via McTube for YouTube.
https://www.youtube.com/watch?v=0RZW3CoFVDw
『しんぼる』
via McTube for YouTube.
https://www.youtube.com/watch?v=UhlM_00kEdQ

メタレベルのシーンを取り込み、そこで当の映画が100歳の名も知れぬ老監督の作品だと仄めかすことで松本は作品に対する批評を狡猾に回避している、と言うけど、そうかなあ。そうは感じなかったな。

松本人志の映画はわざわざ映画館にまで観に行こうとは思わんけど、言われるほど酷くもない。スーザン・ソンタグが日本のゴジラ映画を称して使った「キャンプ」てのが松本作品には当てはまるように思う。深みを求めない表層的な違和感。

松本人志監督『シンボル』視聴了。悪くはないんじゃないこれも?

んー、「神」をあまりに無造作に扱ってる、て批判されてるけど、松本にとっては宗教含めて様々な現実もパロディーの対象に過ぎないんじゃないかな。敬虔なクリスチャンがそれを批判するんだったらそれはそれで分かるけどね。

密室で脱出しようにも脱出できず、でも様々なモノは与えられるという設定はドリフ的でもあり、ベケット的でもある。ソンタグが「キャンプ」を論じた小論とベケット論とアルトー論が同じ論集に収められていたことは示唆的かも。

スーザン・ソンタグ『反解釈』http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3/dp/4480082522/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1417511169&sr=1-1&keywords=%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0+%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88

ソンタグの美学批評は古いっちゃあ古いな、もはや。世代というか、ぼくにとっても記憶にある初めての映画は『ゴジラ対キングギドラ』だったと思う。父親に連れていってもらった。でもこの映画体験は大きいと思うよ、ぼくや松本の世代にとって。

松本人志も観てたに違いないゴジラ映画やウルトラセブンの特徴って(大人から見れば) 滑稽な誇大妄想的な世界観だと思う。ソンタグはその特徴を「キャンプ」と名付けた。で、ぼくはこの誇大妄想的な世界の根底に現実世界に対するニヒリズムが横たわっていたと思うんだよね。

ニヒリズムって何?て問われたら、絶対的な価値の喪失と答えたいんだけど、それは基本的にはニーチェ以降の西欧の状況なわけ。ベケットやアルトーの演劇はまさにその価値の喪失を問うものだった。日本の場合はちょっと違って諸行無常の感覚、それも仏教的というよりも「空っぽ」に近い感覚です。

それも一種のニヒリズムと呼べるならそれこそゴジラ映画や松本人志の映画に流れているものであり、ぼくの中にも脈々と流れているものだと断言できる。必ずしもこのニヒリズムは悲観的な暗さを画面にも、人生にもたらさない。ライムスター宇多丸は浅薄な歴史観て松本を批判するけど、

歴史はすでに止まってるんですよ、感覚的には。でもその歴史の終わりに「終わり」はない。この感覚はどん詰まりではあるけど、歴史からの解放でもあってね。だから乾いた笑いは可能なんです。ライムスターが批判する『しんぼる』での松本によるイエス・キリストへの擬態もね、

どちらかと言うと麻原彰晃を彷彿とさせるチープさであってね、だからこそやっぱり深刻な面はある。イエスというより麻原ね。

松本信者と思われるのは困るのだが、オウム事件が松本人志という芸人というより人間にさえも傷跡を残していること、自分の中の麻原的なものを表現しつつ、それを陳腐に相対化することでギリギリ批評たりえていること、この点は評価できると思う。

オウム的なもの、または麻原的なものってニヒリズムの超克だとおもってて、松本人志の「笑い」はニヒリズムを乗り越えることなんて無理なんだって、て言ってるような気がする。積極的でも明るい笑いでもなく、どちらかと言うと諦念に近い笑いだけど、でも笑って生きていくしかないでしょ。
『言葉なき行為-1』('Act Without Words-1')

動画はここ↓
http://youtu.be/Qb_eMMqUjTA

1958年初演の1幕ものの劇。作者によって「一人の役者のためのパントマイム」と戯曲に副題が付されているからして、チャップリンやバスター・キートンなどの喜劇役者を配役することを念頭に書かれたものと思われる。

作者はサミュエル・ベケット。アイルランド出身でありながら人生の多くをフランスで過ごす。劇作家として最も知られているが、劇作以外にも小説を多数書いており、作風は演劇、小説ともに「不条理」を特徴とする。文学史的には「不条理演劇」("Theatre of Absurd") の中心人物と目されている。

ちなみに世紀の喜劇役者キートンとは自身が脚本、監督した『映画』('Film') にてコラボしていて、いかにベケットの作品が喜劇と相性がいいかを物語っていて興味深い。特に『ゴドーを待ちながら』という作品は日本でも多くの劇団やコメディアンが上演しているほどである。

さて『言葉なき行為1』であるが、以下の三つの層の複合体としてぼくは理解している。

1. ドリフ的なコントの層。「不条理さ」を楽しむレベルであり、エンタテインメントとして消費できる。

2. 作品の意味の層。主人公のドタバタを人生の寓意だと捉える場合、そこに人生哲学を読み取ることができる。ニヒリズム。

3. 「演劇」とは何かを問う層。俳優と劇作家、演出家の権力関係の寓意。力の政治学。

ベケットの演劇全般に言いえることは彼が演劇という表現形式にきわめて自意識的なことであり、舞台で繰り広げられるストーリーとは別に、いやそれと同時に「演劇」そのものが常にテーマになっている。したがって3つめの層に最もベケットらしさがある、とぼくは考える。ただし、上の3つの層が絡み合って始めてベケットの演劇は面白く、かつ深遠なものとして受容されているはずである。

いや、聴衆としてはドリフの層だけを楽しむのも間違いではない。でもそれではベケット劇の魅力が半減してしまうように思う。以下それぞれの層をもう少し詳しく解説してみよう。

1. ドリフ風のコントの層。最もベケットの喜劇性が発揮されている層であることは言うまでもない。中天から鋏が降りてくるところなど「志村、後ろ後ろ!」と主人公の俳優に声をかけたくなる。箱を積んで転ぶところなどはチャップリンのパントマイムを思わせもする。

2. 作品の意味の層。ホイッスルを誰が吹いてるのか、なぜこの主人公は砂漠から逃げ出せないのか、そもそもなぜ主人公は砂漠と思しき場所にいるのか、そして最後になぜ鋏は渡すのに「水」と書かれたボトルのみは主人公に与えないのだろうか、こういった疑問に答えるには、我々人間の生活と生存が究極的には「神」によって握られている、と考えるのがもっとも合理的だろう。ただ決定的なのは砂漠で生き延びるのに必須な水のみが与えられないことである。

ホイッスルと様々な道具に翻弄されたあげく主人公は水のボトルを手に入れるのを最後には諦めてしまう。その諦めた瞬間に水のボトルが主人公の目に前まで初めて降ろされる。しかし男は目の前にぶら下がっている「水」と書かれたボトルをぼんやり眺めるばかりである。そうなると、人生は諦めが肝心だ、というニヒリスティックな人生哲学を読み取るか、人間は無力だとはたまた悲観論に陥るかのどちらかだろう。

ところで主人公の男はついに縄梯子を木の幹に引っ掛けて首を吊ろうとするが、幹がダラーンとなって失敗する。つまり生きるも死ぬも人間の意のままにはならない。

3. 俳優と劇作家、演出家の関係。舞台の裏方さんがホイッスルを吹いたり、縄梯子を垂らしたりしているのは明白ではあるが、そうさせているのは劇作家=演出家のベケットであるから、主人公の男の生存を握っている「神」とは作家=演出家のことでもある、と言える。少なくともそう理解するように促されている。舞台の世界と舞台を成立させている現実の世界の垣根が壊されているわけである。この見地に立てば、俳優とは作家=演出家の実験台であり、実験用のハツカネズミであることになる。

以上簡単に3つの層を分けて解説してみたわけだが、この3層が絡みあっているのがこの『言葉なき行為-1』という演劇なのであるから、より一層精緻な分析が必要とされるに違いない。でも今回はここまで。

『ハムレット』を読む (1)

オフィーリアはどちらかと言うとこの戯曲の中では端役なんだけど、それだけかわいそう感がけっこう強い。クローディアス王の廷臣筆頭で現在の総理大臣にあたる政務トップであったポローニアスの娘であり、終幕でハムレットと剣を交えるレアティーズとは兄妹の関係です。ハムレットとは恋仲であり、つつがなくハムレットが王位につけば妃として迎えられたんじゃないかなと思う。

でも、「つつがなく」とはどうしても行かないんですよね。悲劇ですから(笑)。

ポローニアスはクローディアス王の腹心であって、そのクローディアスは父であった先王ハムレットを毒殺して王位につき、よりによって先王の妻であるガートルードを妃にしちゃってるわけで、その息子や娘が悪い影響を受けないはずがない。でね、ネタバレになりますが、母親と話し合いをもっていたハムレットによって、盗み聞きをしていたオフィーリアの父親は殺されてしまう(第3幕4場)。どう考えてもハッピーなカップルに発展しようがない。兄であるレアティーズにも「身分の違い」を理由にハムレットとの関係に懐疑的であることを告げられたり、、、(第1幕3場)。

で、オフィーリアのことが特にかわいそうに思うのはハムレットの偽装された狂気とは違って、彼女の狂気が本物であることにあるように思う。ハムレットへの愛はまっすぐで疑いようがなく、復讐に燃えるハムレットに袖にされたり、ハムレットの狂気の原因を探るためにクローディアス王に利用されたりと完全に翻弄された挙句、最愛の男による父親の殺害が起こります。狂うね、確かに。

以下に紹介するのはオフィーリアがほぼ自殺に等しい溺死を遂げる直前にクローディアスの宮廷に登場する場面(第4幕5場)。リュートといういう楽器を吹きながら舞台に登場し、歌を歌いまくる。その歌詞がかなり際どくて、かえって彼女の傷の深さが浮き彫りになる、そんな印象です。

'Tomorrow is Saint Valentine's Day,
   All in the morning betime,
And I a maid at your window,
   To be your Valentine.'  (lines 47-50)

「明日は聖バレンタイン・デイ、
   早くから午前中ずーっと、
私、一人の乙女があなたの窓辺に隠れて、
   お嫁さんになれることを祈っています。」

シェークスピアが生きていた時代のバレンタイン・デイは現在の、また我々日本人のものとは異なって、この日に初めて顔を合わす男女が結ばれるという伝説があったそうである。「乙女」と訳したのは "maid" に「処女」という含意があるからだが、それが次のスタンザ(連)で生きてくる。

Then up he rose, and donned his clothes,
   And dupped the chamber door;
Let in the maid, that out a maid
   Never departed more.   (51-54)

それから彼は起き上がって、服を着て、
そして部屋の戸を開けたのです。
その乙女を部屋に入れると、
二度と乙女が部屋を出てくることはなかったのです。

二度と「乙女」が部屋から出てくることはなかったというのは、この歌の女主人公が実際には男の部屋で処女を失った、ことを意味します。この歌の流れにハムレットとオフィーリアの関係への揶揄を認めることは難しくないな、と。議論はいろいろあるようですが、肉体関係はあったと考えるのが自然ではないかな。この後の連からは男一般への呪詛が下品な宣誓の言葉(oath)を伴って続きます。

By Gis, and by Saint Charity,
   Alack, and fie for shame!
Young men will do't, if they come to't,
   By Cock, they are to blame.

Quoth she 'Before you tumbled me,
   You promised me to wed.'
'So would I ha' done, by yonder sun,
   An thou hadst not come to my bed.'   (57-64)

イエス君と慈善様にかけて、
あらまあ、なんてまあ恥知らず!
若い男たちはやっちゃうのよね、女が来るとなると、
ちんこ様にかけて、男たちこそ非難されるべきよ。

彼女はそのときの会話を引用する、「私を仰向けに倒したとき、
あなたは私に結婚の約束をしたわ。」
「結婚してただろうね、お天道様にかけて、
もしも君が僕のベッドにやって来たりしなかったらね。」

まあ言い方は下品だけどやり逃げされた、ということになる。性的な表現に満ちてます。ハムレットのオフィーリアに対する愛情が本物だったかどうかは、テクストから読み取るほかはないのだけれど、それを疑がう証拠も見当たらない。「尼寺へ行け」("To a nunnery, go.") という有名なハムレットのオフィーリアへの言葉にしても、父王の弟(ハムレットにとっては叔父)とあっさり再婚した母親に対する不信感から出た言葉であって、むしろ修道院("nunnery")に隔離されていて欲しいという風に読める(第3幕1場)。結婚という聖なる制度への絶望と言ってもいいんじゃないかな。

「聖なる」ていうのは大げさと言えばそうだが、王家の家族、婚姻関係というのは国民全体の規範であってね、近親相姦というのはやっぱりまずい。『ハムレット』の舞台設定はルネッサンス期のデンマークであり、現代日本における天皇家と比較するのは無理があるけど、当時の絶対王政における王と王家の国民一人一人への影響は物理的にも、心理的にも大であったことは想像できる。そういうわけでオフィーリアという一人の女性の立場に立てばやはり理不尽で、可哀想な状況だと思う。

どちらにしてもオフィーリアのような貴族の子女が人前で歌うような歌ではないし、まして王や王妃の前で歌うとなるとその精神状況はそうとう深刻と言わざるをえないね。

*底本として使ったのは Oxford 版で、四つ折り本第2刷(1604-5に出版)を最も信頼して編集していることを特徴としています。『ハムレット』も他の作品も一つじゃないんですよね。その辺はまた改めて。
「緒論」
著者がキェルケゴールであることは論を俟たないにしても、この論考において「ヴィギリウス・ハウフニエンシス」という著者名を用いてるところは注意を要する。キェルケゴールの重要な著作のほとんどは偽名で出版されたものなのであるが、「ヴィギリウス・ハウフニエンシス」とはラテン語で「コペンハーゲンの夜警番」くらいの意味らしい。

「不安」という暗い闇を見張る者としてのキェルケゴールの姿を彷彿とさせる。

「原罪という教義学上の問題を指し示す心理学的=道標としてのひとすじの研究」というのが副題についてるところから全体を予想するのは可能ではあるが「原罪」という言葉で躓きそうになるのを隠すつもりはない。だってキリスト教徒じゃないんだもん、というぼくを含めた読者の感想は正直でよいと思う。ただしここは信仰の問題じゃなしに思想上のことと割り切ったほうがいい。キェルケゴールは確かに神学部の卒業者であるし、生活の安定のためにも牧師として何処かの地方に赴任する準備は整っていた。

彼の主著が偽名で出版されたことを思い出してほしい。牧師として書くのであれば実名でよかったはずなのである。偽名を名乗ってでも書きたい「やばい」ことがあったと考えるのが妥当である。それが彼の「新しい」哲学への野望であった。

さて「緒論」であるが、当時の哲学界の大御所であるヘーゲルとその弟子たちに対する批判と神学部で教えられていた教義学に対する批判を中心に展開されていてかなり読みづらい。ヘーゲル論理学にとって「現実性」は思惟できないものであり、また教義学にとって「信仰」が「直接的なもの」(それ以上のなんらの規定をももたぬところの)であるならば、人が信仰にとどまることはおよそ不可能なことだと言う。

「直接的なるもの(それ以上なんらの規定をももたぬところの)は、あたかも自分の名前を呼ばれたちょうどその瞬間に我にかえる夢遊病者のように、それと名ざされるすぐその瞬間に止揚されるのであってみれば、誰が一体そんなもののもとにたちどまっていようなどと思いつくことであろうか!」(14)

「現実性」にしても「信仰」にしてもそれらがそれぞれの学問内で「直接的なるもの」と名指しされてしまうやいなや理解できないものとなり、信用たるものではなくなってしまう。なぜなら言葉によって「媒介」されるやいなや「直接的なもの」は止揚される、つまりは乗り越えられてしまうからだ。ここでキェルケゴールは宿敵ヘーゲルの「止揚」(アウフヘーブング)をうまく反転させてその矛盾を突く。

つまり「直接的なもの」は実在しない。いや存在できない。

「結論」を先取りするとキェルケゴールは現実性ではなく「可能性」の中にこそ人間存在の根源を見据えていて、信仰の問題も「可能性」の奥底に横たわるものとされる。同様に信仰の問題に付随する「罪」の概念も倫理学では扱えないものとされている。

キェルケゴールにとって当時の学問は客観至上主義であって、だからこそ論理学にとっては「現実」が捉えられないのであり、教義学には「信仰」が分らず、倫理学には「罪」を概念化できないのである。

キェルケゴールはソクラテスの対話に「主体化」の契機を見る。

「もともとソクラテスがソフィストたちについて、彼らは語ることはできても対話をすることができないといって難じたことの意味は、次の点に存するのである、ー彼らは何事についても多くを語ることができたが、主体化の契機を欠いていたということ。ところでこの主体化ということこそ、ほかならぬ対話の秘密なのである。」(24)

したがってキェルケゴールは客観的な体系の中にではなく主体の中にある主観的なもの、すなわち「不安」という人間に根本的に見える気分を分析することで「現実」や「信仰」や「罪」に肉薄しようと努めるのである。だから心理学が召喚されるのだ。

「ひとは心理学を主観的精神の学と名づけた。だが少しくその主観的精神の後を追うてみるならば、心理学が罪の問題に到達するや否や、主観的精神の学は直ちに絶対的精神の学に転換せねばならぬ所以が、知られるであろう。さてそこに教義学が存するのである。」(38)

何故にまた議論の最後になって教義学にボールを投げ返す必要があるのかははっきりしないし、よく分らない、とぼく自身白状しておく。
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