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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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別に音楽文化に限った話ではないけど、ライブハウスを舞台に「通過儀礼」が広く一般化したことは驚くには至らない。

通過儀礼の宗教的な起源については誰でも知ってるし、ライブハウスで、いやもっと大きな武道館などでジャニーズのグループに熱狂的な声援を送っている若者たちが「信者」扱いされていることもよく知られている。尾崎豊とそのファンとの関係は教祖と信者のそれに近い。

でもそれを「宗教」とは正確には言わない。あくまでも比喩なのである。でも比喩とはいっても宗教の儀式が起源であることには変わりない。近代化が進めば進むほど公式の宗教は非合理なものとして抑圧、または克服されていくのだが、実はその裏側で我々の日常生活の中に宗教的なコミュニケーションのあり方が定着している。

一神教の西欧と多神教のアジア、日本の近代化の過程は異なって当然だから、ライブハウスのあり方もおそらく少しは異なっているだろう。だけどほとんどの近代社会の制度やアイディアは西欧からやってきたわけだから、やっぱり大枠は変わらないはずだ。

しかし俺、文章下手だな。簡単な言葉で読み手に伝わる文章を目指してはいるが、論文調の癖がある。何とかしたい。

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からこそ、インディー・ロック、ギター・ポップは「美しかった」のである。

子供と大人の中間にあって、家庭からも社会からも孤立している「若者」の音楽であったから「美しい」のだ。しかも「純粋さ」がとても痛々しく、悲しくもある。

小さなライブハウスで彼らインディーバンドのライブを体験して、その「美しさ」に共感したとしても、所詮ライブは「通過儀礼」であり、子供が大人へと変貌するにつれて、その「美しさ」は錆び果てる。つまり宝石と思えたものが「ゴミ」になる。

それは暗くて狭い空間に佇む観客だけではなく、華やかな舞台で演奏するパフォーマー達にさえ訪れる宿命だ。醜く老いぼれていくパフォーマーが儚い、だからこそ「美しかった」音楽を観客に届け続けることは難しい。観客たちも同時に歳をとっていくからだ。

「美しくなくなった」かつての偶像を目の当たりにする時こそが厳しい現実に直面させられる瞬間である。だからその瞬間を経験した多くのインディー・ファンはライブハウスを去ってゆく。大人になるのだ。通過儀礼の終了である。

大人の現実社会は、世界地図のどこにいるのかには関係なく、またキリスト教圏か仏教圏にも関係なく、プロテスタント倫理に裏打ちされた資本主義の世界である。現代の世界は「グローバルなもの」だからだ。すなわち、儚い「現在」にではなく不確かだが、だからこそ可能性の広がっている「未来」に投資する。プロテスタント倫理は未来の「幸福」を実現するために禁欲的であること、浪費しないこと、理性的であること、そしてなにより一生懸命労働することを我々に要求する。

汗水たらして働いて得たお金、神経をすり減らして稼いだお金、は「神」からの贈り物であり、したがって富を築くことと信仰は両立する。労働はこの倫理にとって「善」だからである。これこそがアメリカが世界を席巻することになった思想である。そうはいっても人間性を踏みにじるような「金儲け主義」は間違っている。「神」の意には添わない。(マックス・ウェーバー『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を参照してくださいね。)

以上、風邪気味元インディー野郎の独り言でした。
これからもエッセイみたいなものを綴っていく予定です。
宜しく。


Wendy Fonarowが「あとがき」に書いて曰く、

My trick has been indie's trick --- that music and emotional epiphanies matter. If popular music is not worthy of study, then it's because it is not worthy. It's not worthy because it is ephemeral. It doesn't last. It is our trash. You can't see it in a museum in two thousand years. It is dirt. Do we not live in a world where it does not matter what sort of music you like? Does it matter if artists make music independently or under corporate auspices, extravagantly or modestly? Will it help you get a job? Will it feed your family? To the outsider, the emotional epiphanies of the indie comunity are as insignificant as documenting fleeting trains as they speed by your platform.   (p.249, Empire of Dirt: The Aesthetics and Rituals of British Indie Music, 2006)

わざわざ訳さないけど、もし「ポピュラー音楽が研究するに値しないのなら、そうだったらそれはポピュラー音楽に価値がないからだ」と書いている。はたしてそうなのかというと、そう「あとがき」で書いているFonarowさん自身が200ページを超えるこの研究書を書いているわけだから、答えは「研究に値する」である。でもそれが研究に値するのはポピュラー音楽が主張している「価値体系」が優れているからではなくて、その「価値体系」が一つの重要なイデオロギーとして社会全体の中で機能的に働いているからである。

この本はイギリスのインディー・ロックについて書かれた本だが、かつて、今でも少し、インディーファンであった自分にとっては、けっこうキツイ分析であったように思う。研究として優れているのは間違いないけど、なんというか教訓のようなものをこの本から受け取った自分がある。「現実」を見ろ、と何度も言われたような気がする。インディー・ロックの「美しさ」はまやかし、トリックであり、十中八九「ゴミ」("dirt")である、と。

タフな研究書である、この本は。

伝えなければならないこと。

あぶらだこ、21世紀における展開。


これを観て、聴いて、「訳分からん」「ボーカルの目が行っちゃってて気持ち悪い」、そういう反応があってもいいと思う。

でも大事なのは、音楽のあり方について我々の心が「開かれている」ことである。

こういう音楽もあるんだ、ちょっと面白いな、と思えることである。

教師(とくに音楽を教えたいなら)の仕事は柔軟な感性を育てることにある。

音楽の多様な可能性は音楽だけにとどまる話ではなく、音楽を通して(とくに聴いたことのないような音楽を通して)人生にさまざまな可能性があること、もっと多様な幸福が存在しえること、を理解、体感してもらうことにある。

その意味では、音楽の多様性を制限してしまうような市場の論理には反発する勇気を持たなければならない。

知的には分かってはいても、本能的にダメ、という意見は分かる。でもそれは本当に「本能」かと自問してもらいたい。

メインストリームの音楽も悪くはない。それは大変な競争を勝ち抜いた音楽であるから、尊敬に値する。だが、それはミュージシャン本人と視聴者双方が、音楽産業が課してくるさまざまな画一的な文法(メロディー、歌詞、パフォーマンス)を受け入れることで音楽の多様性の多くを犠牲にしている、という自覚の上でなければならない。多くの売れているミュージシャンで優れた人たちは分かっている、と私は信じたい。

言い換えれば、不快に感ずる音楽も実は「本能」からではなく、音楽産業が課してきた基準が内面化されているからそう感じるに過ぎないのである。

ボーカル担当の長谷川裕倫の藪にらみの歌い方に戦慄せよ。初期のハードコア・パンクからはずいぶん曲調が変わって、プログレっぽさが増しているが、長谷川の「衝動」第一主義は変わっていない。それに日本の民謡的な調べが混ざっていたりする。進化しているのだ。

ライブではMCなど入らない。ひたすらみょうちくりんなメロディーと歌詞を叫びまくっている。ものすごい緊張感を漂わせ、観客に媚びることがない。でも伝わる人には伝わるのだ。

私はいつもいつもこういう音楽を聴いているわけではない。アジカンもカラオケで歌うし、なんなら青春の巨匠中村雅俊の歌も歌う。

ただただ「開かれていること」が大事なのだ。もちろんそれを阻害するような動き(それが個人的なものであれ、経済的なものであれ、政治的なものであれ)に対してはぜんりょくで戦わなければならない。

そういうものでしょ?
 


大好きです、突然段ボール。


「変なパーマネント」という7インチ自主制作レコードを最初に見せられたときの衝撃・笑撃は忘れられない。

時代はニューウェーブの時代であったがとにかく不細工でダサかった!それも圧倒的に・・・。

以来私のバンドのレパートリーにフリクションの「Automatic Fula」とともに突段の「変なパーマネント」が加わることになったのである。

高校に行っていた頃、熊本大学まで「東京ローカーズ」の記録映像を見に行ったことがあった。大学生の何かのサークルが企画したものだったんだと思うが、やはり突然段ボールのライブは衝撃・笑撃だった。

阪神かなんかの野球帽を被った見るからに中学生がベースを弾いていたからである。

なんでもありか、と思ったことを覚えているが。ロックの既成概念をはるかに超えた「何か」であった。彼らがやっていた音楽は。

残念ながらボーカルの方は亡くなってしまったらしいが、イカすバンド天国に出てきた彼らの映像を懐かしく観る。

やっぱかっこいいじゃん、ださいけど・・・。
 
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