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もちろんオーティス・レディングのこと。


'When deep soul met the love crowd
Otis Redding: Monterey Pop Festival, June 17, 1967'
(Sarah Hill)

なんというか、オーティスのテンションが異常に高い。モンタレイ・フェスの土曜日のトリだからかなあ。

それはそうとステージの奥の壁になんともR&Bに似つかわしくない光の曼荼羅模様が蠢いているのが面白い。

なんとなれば筆者ヒルによればこのオーティスのライブはディープなソウルミュージックとサイケデリック・ロックの交差(クロスオーバー)として記憶されるべき出来事だからである。

アフリカ系アメリカ人のミュージシャンはオーティスとルー・ロールズとジミ・ヘンドリックスだけ、という白人中心の音楽祭だったと言えばその通りであるが、オーティスの直前に演奏したバンドがジェファーソン・エアプレーンだというのはとても興味深い。

ちなみにジェファーソン・エアプレーン。


'Sombody To Love'は個人的に大好きだが、どちらにしても「光のショー」は当時のカウンターカルチャー寄りのサイケロックでは定番の演出だったわけですよ。フェスの「ポップ」という看板は偽りではないと言うか、サイケデリックもソウルも「ポップ」の冠で舞台に上げちゃったわけですね。そうは言ってもジェファーソンとオーティスが登場した土曜日はほぼサンフランシスコのサイケバンドがほとんどだったわけである。

筆者によれば、注目すべきはそういった条件の下で音的には地味、凝った装飾も演出もないオーティスのソウルが観客に大いに受け入れられたこと、だと言う。確かにそうだな、うむ。

そう言えばたしかジミヘンとオーティスのライブの模様をA面とB面に配したレコードがあったな。あれ、モンタレイだったか、フィルモア・イーストだったか、どっちかだが・・・。

ちょっと長くなるが引用。

There is certainly more audible participation in Redding's set than in any of the others filmed by Pennebaker that weekend. Given the more subjective nature of some of the perforances -- there was little room for call-and-responce in Big Brother and the Holding Company's rendition of 'Ball and Chain', for example -- he could have fallen flat trying to engage the audience in the interjections of 'Shake!'; the rather more straightforward structure and delivery of the song similarly might have souded dated to the newly psychedelicized audience. What delivered the music home to the Monterey crowd was his exceptional stage presence. From the moment he appeared on stage he commanded their attention. He played with the audience; he teased them; he worked them up and took them down; in short, he gave them a visceral experience where other bands on stage that might have had focused on the cerebral.

要するに「ステージでの存在感」これこそがオーティスをしてサイケデリックの観客を熱狂させた、と。とくに重要に思える指摘はオーティスが「他のバンドなら脳内的なもの(the cerebral) に焦点を当てたかもしれないそういった場所で内臓的・本能的な経験(a visceral experience) を与えた、と言っていることだろう。

「拡張された意識」(expanded consciousness) って基本的にLSDかなにかの薬で感じる錯覚であるし、でもそんな薬物でぶっ飛んでいた観客が身体的な刺激を求めたとしても不思議ではない。

これも一種のクロスオーバーだったのかもしれん。
 

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「哀愁のマンデイ」のボブ・ゲルドフではなく、ホフ・ディラン、じゃなくてボブ・ディラン。

前回ニューポート・フェスティバルでのディランのステージ後にマネージャーと黒人音楽収集家でフェスティバルの実行委員の一人であったアラン・ローマックスが取っ組み合いをした、と書いたが前日の土曜日に行われたブルースのワークショップでのことらしい。というのもディランのマネージャーであるアルバート・グロスマンが日曜日に一夜漬けのバックバンドを務めたポール・バターフィールド・ブルース・バンドのマネージャーでもあったことが発端なのだそうだ。

ローマックスは「黒人のブルースを演奏する白人」が大嫌いだったそうでバターフィールド・バンドの演奏後、嫌な応対をしたローマックスに喧嘩を売った、というのが真相だ。

筆者マーシャルの意見によればこの事件が次の日に出演が予定されていたボブ・ディランの気持ちをエレキギターでオーソドックスなロックバンド形式での出演に踏み切らせたのではないか、と述べている。

どちらにしても50年代に再発したフォーク運動との断絶をディランが身をもって示したのは確かだろうと思われる。反戦、労働者階級の味方を掲げていた第二次フォーク・リバイバルから離脱したわけである。

さてもう一人の大物マッコールに関して言えばこの人がオリジナルらしい「ダーティー・オールド・タウン」はやっぱり名曲だけど、スコットランド民謡への介入、フォーク音楽運動を社会主義的なポリティックスに結びつけた張本人である。さらにはフォーク音楽(バラッドのようなトラッドを含めて)を教条的なものにしたことだけは否めないようだ。

ちょっと切ないのはポーグスの「ニューヨークのファアリーテール」でレコーディング、PVともにマッガワンと共演したカースティー・マッコールがこのイワン・マッコールの実の娘であり、さらには2000年にメキシコで交通事故によってこの世を去っていることである。

なんと因果な話であることか!
しょぼいボブ・サップではなくボブ・ディランでしょう。

http://www.youtube.com/videos?ytsession=wdRQJFy_0FqKOwAPxkWSAyHgGBjMEvXf15XTk3cnhnUUv3aCFO0ODD_l4npDQsVyOmroOtd0xgtrzduYhOjKn_yDjx0cmZ98JmgwCTrMH-R352fP3jTSc9fN5x8snjLHR3_52AY1dZVOkcjO2uZvml0IPcd8KnUsv7xoim1QRlE83VXek0fM8sfStSDZdXqSi0uvSrtELLy8r3PhzrmtW83199khSNGjk_RYq3qUUnYNrKP7h8cPigHhTHJlk2HIJdSw9wf_qtdH7rbiO-Uqt_G8Vynkj2_5dsAWLIpORH4Gy6lSlqf_VaE9Eezq059YFVA04JjGg5vyHXc1YedLe-VS86WFeWCQ-0jMXBMtwVfXXSzER6oaSlFZqLmiW7-F

Bob Dylan: Newport Folk Festival, July 25, 1965
(Lee Marshall)

ボブ・ディランを一生懸命聴いた憶えはないが、最近ではよく聴く。'Highway 61 Revisited'とか'Blonde on Blonde'ね。この人と音楽のカリスマ性ってもしかしたらビートルズを凌駕するんじゃないかしらん?

さてMarshallの論文。

多くのページが「フォークリバイバル」とのディランの微妙な関係に割かれている。面白いことに第一次リバイバルも第二次リバイバルもイギリスで起こっていることだ。どういうことだろう?私は勝手にアメリカのボブ・シーガーとかウッディー・ガスリーを思い起こしてしまうのだが・・・。

それはそうとニューポート・フォーク・フェスティバルでのディランの演奏はたしかにエレキギターを持って登場したことで有名だし、以来フォークの世界では裏切り者呼ばわりされたこともよく知られている。

筆者は必ずしもフォーク・リバイバルのイデオローグたち(イワン・マッコールやアラン・ローマックス)を表立って批判しているわけではないが、黒人音楽にも造詣が深い音源収集家にして批評家ローマックスに関してはこのフェスティバルでの演奏の後、ディランのマネージャーがローマックスに喧嘩を売り、泥まみれになった、とある。

フォーク・リバイバルのイデオローグたちへの批判という点では私も共感する。初期のリバイバルは基本的に近代的な国民とは区別される「民衆」(folk)をフェティッシュ化することで、明らかに反近代的なロマン派であり、「過去」を捏造したことも疑いえない。それも近代のテクノロジーである録音機材をフルに利用して田舎を飛び回って音楽を収集したくせに、である。ほっとけば消えていく音楽や歌を保存したいという気持ちは分かるし、大事だとも思う。が、収集したものをカテゴライズし、それを世の中に問うときいろいろな問題が起きる。つまり「生きた音楽」ではなく物神化された「過去」にしてしまうのである。

続く。
 

カブト虫採集を趣味にしている人ではなく、もちろんビートルズの熱狂的なファンのこと。


'Ladies and gentlemen...'
The Beatles: The Ed Sallivan Show, CBS TV, February 9, 1964
(Laurel Sercombe)

マネージャーのブライアン・エプスタインによってもともと革ジャンにリーゼント姿でステージに立っていた「荒々しい」ビートルズが揃いのスーツにマッシュルームカットの「可愛い、優等生の」ビートルズに変身させられたことは有名だが、この学者Sercombeによると、

その音楽性よりも「ビートルマニア」と呼ばれた熱狂的な10代の女の子たちこそがビートルズがポピュラー音楽史に果たした最大の貢献だという。何故なら彼女たちこそ70年代に入ってから巻き起こった女性解放運動の「先駆け」または「兆候」であったからだ、そうである。

実際キャーキャーいう女性の声は初期のビートルズの映像、ドキュメンタリー映画を観れば際立っている。私自身中学時代に近くの映画館に『ビートルズがやってきた、ヤーヤーヤー』とか『ヘルプ』など三本立てで観たとき感じた感想もそうであった。そういえば『アニメ・ビートルズ』なんてのもテレビで夕方放送していて、食い入るように観ていた覚えがある。

ビートルズの面々がスタジオから出てくると夥しい数の女性ファンたちが殺到してきて、メンバーたちを追いかける、というオープニングだった。

さて「キャーキャー」言われたポップスター(またはロックンロールスター)は50年代のエルヴィス・プレスリーがいたわけだが、プレスリーの場合は「真面目な女の子は悪い男の子が好き」という構図であり、男性ファンはマッチョで、女性ファンはまさに中産階級のお嬢さんたちであった。ところが初期のビートルズファンはほとんどが若い女性であり、マッチョではなく「可愛い」、見ようによっては女性的な魅力を振りまくビートルズであった、と。

この論理にはロックのイデオロギー(暴力性、無法者、反抗者というイメージ)とは違ったポップの戦略が浮かび上がってくるように思うが、ポップというものがロックが持つ「女性蔑視」を実際に取り除いていったのか、またどのように取り除いていったのかはマドンナやらブリットニー・スピアーズなどの女性ポップスターのみならず、「両性具有」(アンドロギュノス)というイメージを打ち出したグラムロックなどにも係ってくるのではないだろうか。

それにしても結局この論文集、音楽論というよりもポピュラー音楽のメディア表象論といった感じで、やっぱり「ロックはライブでしょ」という意見(固定観念?)を真っ向から否定してくる論調のものが多い。

メディアとテクノロジー、これらが大事なのは分かってるけどね・・・。

ポピュラー音楽史というよりもアメリカのポピュラー文化史にとって1964年のエド・サリヴァン・ショーへのビートルズ出演が重要というのはその通りだろうけど、「女性解放運動」とビートルマニアの繋がりの説明は中途半端だな。

それはそうと『アニメ・ビートルズ』が久々に観たくなってきたよ。
 
『麦の穂を揺らす風』はたしかイーモン・デヴァレラとマイケル・コリンズを念頭にして内戦で袂を分かつ兄弟を造形していたと思う。

独立戦争の後でイギリスーアイルランド条約(北部六州を残して「アイルランド自由国」として自治独立を許すもの)推進派と反対派でシンフェイン党とその軍事組織IRAが分裂して戦い合うという・・・。

推進派のリーダーがマイケル・コリンズで反対派がデヴァレラだ。デヴァレラはイギリス皇室への忠誠の拒否とイギリス連邦(コモンウェルス)からの即時脱退を主張したわけね。ちなみにコリンズは内戦中に戦死。

マイケル・コリンズはちょっと前映画化されたくらいだから人気があるみたいだが、デヴァレラのほうは微妙だな。共和国として南が完全独立したあと長い間大統領に居座ったわけだけど、彼の妥協無き共和主義(「北」はアイルランドの領土である、という主張)と国内での反動的とも言うべき保守政治でかなり批判されている。とくにフェミニストに評判がすこぶる悪い。

まあそれはそうとデヴァレラが出入りしていたゲーリック・リーグ(アイルランド語を復活させることを目的とした文化団体)にはロンドン支部があって、そこで生まれたのが「ケーリー・バンド」という音楽形体なわけね。

20世紀初頭の話。まあそれはゲーリック・リーグの会合を盛り上げるためにかなりおざなりに作ったそうで。「ケーリー」はまあスコットランドやアイルランドなどの田舎に散見されたダンス音楽なんだけど、50年代以降一気に廃れてしまったそう。デヴァレラ政権下のアイルランド共和国では「ケーリーバンド」は不純なもの(アイルランド固有の音楽ではない)とされ、代わりにアイリッシュ・ハープやボドランのような打楽器が「アイリッシュ・ヘリテージ」という文化政策の中で称揚されたんだと思う。アイルランド語で歌う伝統歌謡とか。

私的に言ってしまえば民謡がアイルランドでは「高級な」音楽になっていく訳ね。他のヨーロッパ国におけるクラシックのような地位にね。このポピュラーなのに「高級」という困った事態が起こるのも独立以前から中産階級だったカトリックが権力中枢を握ったからだと思う。それまでは公職から追放されていたからね。ルサンチマンというか・・・。

当然メディアテクノロジーの発展も見逃せない。つまり録音技術の発展とレコード、レコードプレイヤーの登場ね。アメリカにおけるアラン・ローマックスのようなコレクターがわんさかアイルランドに来て録音採集して周った。その中心人物がショーン・オレアダということになる。クラシックも勉強していた人らしいが、アイルランド歌謡・民謡を収集する傍らで音楽家として、また音楽学者として一気に有名になる。やっぱこれ50年代かな。

そのオレアダがやっていた楽団からチーフタンズのようなのちに「アイルランドの宝」と呼ばれるようになるバンドのメンバーも出ているみたいだ。

整理すると、
デヴァレラの反動保守政治。
カトリックの旧中産階級の台頭(レコード再生機は当時高かっただろうからね。)
「アイリッシュ・ヘリテージ」という文化政策。

このような条件があってアイルランドでは民謡が高級芸術になっていった、と。いちおうそう整理しておく。

90年代以降は別としてアイルランドって西ヨーロッパでも貧しい国だったからね。大学にも行けないような労働者階級の人たちや新興中産階級の若者たちにとってはこんな文化政策どうでもよかったはず。

そこでロック音楽が盛んになった。

でも複雑なのは労働者階級や農村にも伝統音楽は当然ある。結局「純粋な」伝統音楽なんて妄想だからな。

そういうわけでアイルランド出身のU2がロックを世界的なポピュラー音楽にした時点でカウンターカルチャーとしてのロックの時代に終わりが来る。さらには89年ごろからの「ワールド・ミュージック」ブーム。

シニード・オコナーもホットハウス・フラワーズのオマオンライもロック以外のジャンルとして民謡に接近(復帰?)を試みた。

このオマオンライ、びっくりすることにシューゲーザーの雄マイ・ブラッディー・ヴァレンタインのケヴィン・シールズとダブリンでパンクバンドをやっていたそうだ。

奥が深いよ。

Don't go / Hothouse Flowers

Sadhbh Ni Bhruinneallaigh / Liam O Maonlai

まったく別人に見えるかもしれんが同人物である。

ちなみに共和国の文化政策の中で「不純」というレッテルを受けたケーリーバンドにパンクロックのエッセンスを詰め込んだザ・ポーグスを私が評価する理由は以上のノートで推察していただけると思う。
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