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『言葉なき行為-1』('Act Without Words-1')

動画はここ↓
http://youtu.be/Qb_eMMqUjTA

1958年初演の1幕ものの劇。作者によって「一人の役者のためのパントマイム」と戯曲に副題が付されているからして、チャップリンやバスター・キートンなどの喜劇役者を配役することを念頭に書かれたものと思われる。

作者はサミュエル・ベケット。アイルランド出身でありながら人生の多くをフランスで過ごす。劇作家として最も知られているが、劇作以外にも小説を多数書いており、作風は演劇、小説ともに「不条理」を特徴とする。文学史的には「不条理演劇」("Theatre of Absurd") の中心人物と目されている。

ちなみに世紀の喜劇役者キートンとは自身が脚本、監督した『映画』('Film') にてコラボしていて、いかにベケットの作品が喜劇と相性がいいかを物語っていて興味深い。特に『ゴドーを待ちながら』という作品は日本でも多くの劇団やコメディアンが上演しているほどである。

さて『言葉なき行為1』であるが、以下の三つの層の複合体としてぼくは理解している。

1. ドリフ的なコントの層。「不条理さ」を楽しむレベルであり、エンタテインメントとして消費できる。

2. 作品の意味の層。主人公のドタバタを人生の寓意だと捉える場合、そこに人生哲学を読み取ることができる。ニヒリズム。

3. 「演劇」とは何かを問う層。俳優と劇作家、演出家の権力関係の寓意。力の政治学。

ベケットの演劇全般に言いえることは彼が演劇という表現形式にきわめて自意識的なことであり、舞台で繰り広げられるストーリーとは別に、いやそれと同時に「演劇」そのものが常にテーマになっている。したがって3つめの層に最もベケットらしさがある、とぼくは考える。ただし、上の3つの層が絡み合って始めてベケットの演劇は面白く、かつ深遠なものとして受容されているはずである。

いや、聴衆としてはドリフの層だけを楽しむのも間違いではない。でもそれではベケット劇の魅力が半減してしまうように思う。以下それぞれの層をもう少し詳しく解説してみよう。

1. ドリフ風のコントの層。最もベケットの喜劇性が発揮されている層であることは言うまでもない。中天から鋏が降りてくるところなど「志村、後ろ後ろ!」と主人公の俳優に声をかけたくなる。箱を積んで転ぶところなどはチャップリンのパントマイムを思わせもする。

2. 作品の意味の層。ホイッスルを誰が吹いてるのか、なぜこの主人公は砂漠から逃げ出せないのか、そもそもなぜ主人公は砂漠と思しき場所にいるのか、そして最後になぜ鋏は渡すのに「水」と書かれたボトルのみは主人公に与えないのだろうか、こういった疑問に答えるには、我々人間の生活と生存が究極的には「神」によって握られている、と考えるのがもっとも合理的だろう。ただ決定的なのは砂漠で生き延びるのに必須な水のみが与えられないことである。

ホイッスルと様々な道具に翻弄されたあげく主人公は水のボトルを手に入れるのを最後には諦めてしまう。その諦めた瞬間に水のボトルが主人公の目に前まで初めて降ろされる。しかし男は目の前にぶら下がっている「水」と書かれたボトルをぼんやり眺めるばかりである。そうなると、人生は諦めが肝心だ、というニヒリスティックな人生哲学を読み取るか、人間は無力だとはたまた悲観論に陥るかのどちらかだろう。

ところで主人公の男はついに縄梯子を木の幹に引っ掛けて首を吊ろうとするが、幹がダラーンとなって失敗する。つまり生きるも死ぬも人間の意のままにはならない。

3. 俳優と劇作家、演出家の関係。舞台の裏方さんがホイッスルを吹いたり、縄梯子を垂らしたりしているのは明白ではあるが、そうさせているのは劇作家=演出家のベケットであるから、主人公の男の生存を握っている「神」とは作家=演出家のことでもある、と言える。少なくともそう理解するように促されている。舞台の世界と舞台を成立させている現実の世界の垣根が壊されているわけである。この見地に立てば、俳優とは作家=演出家の実験台であり、実験用のハツカネズミであることになる。

以上簡単に3つの層を分けて解説してみたわけだが、この3層が絡みあっているのがこの『言葉なき行為-1』という演劇なのであるから、より一層精緻な分析が必要とされるに違いない。でも今回はここまで。
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