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Chap. 1: Emancipation (「解放」), Liquid Modernity

学術論文英語を読むことの困難を久しぶりに感じた。この程度は難しい方ではないけれども、前提となっている社会学用語が分からない私にはかなり苦痛である。特にアドルノを中心にして「批判理論」(critical theory) を吟味する段に至って、英語のレトリックが凄まじい。ただ細かい部分はよく分からないながらも言いたいことは単純だと思った。


現代の社会はアドルノの時代のもの、すなわち「公的な領域」が「全体主義」の姿をとって「私的な領域」を侵略しがちな時代とは異なり、逆に「私的な領域」が「公的な領域」を侵略している時代であるので、その間を媒介するような「集会所」("agora") が必要であり、行き過ぎた「個人」(individual) がもう一度「市民」(citizen) になることが必要である。

まあこんなところかな。あとは文学研究者として気になる点をピックアップ。


Other popular addresses for similar complaints have been the 'embourgeoisement' of the underdog (the substitution of 'having' for 'being', and 'being' for 'acting', as the uppermost values) and 'mass culture' (a collective brain-damage caused by a 'culture industry' planting a thirst for entertainment and amusement in the place which — as Matthew Arnold would say — should be occupied by 'the passion for sweetness and light and the passion for making them prevail').  (p. 19)

コンテクストとしては個人化の加速度的な浸透と、それに伴う「自由」の享受によって結果として持ち上がった「大衆」の政治的無能化(つまり衆愚化)を論じているところである。特に批評家の一つの反応としてマルクーゼが挙げられているが、「衆愚化」の原因として考えられてきたものの二つが社会的弱者(負け犬)の「ブルジョア化」と「大衆文化」("mass culture") なのである。要するに中産階層が基幹をなす大衆社会が悪い、という反応と、「大衆文化」が悪い、という反応があったということ。ここで気になるのはもちろんバウマンが「大衆文化」に対するエリート的な反応として英文学の重鎮アーノルドの言葉を引いていることである。曰く「甘美さと光への情熱と、それらを遍く世界に普及させようという情熱」である。バウマンは回顧的にこれらの議論を語っていて、このあとに続くアドルノの議論に繋げていこうという意図があったことは分かる。しかしまあアーノルドを悪者にして「文学」を用済みにしてしまうやり方、またアドルノを悪者にして「クラシック音楽」を用済みにするのも社会学者に典型的である。

アーノルドからの引用は社会学では慣用化しているようである(何故ならレファレンスが註にもないからである)。アーノルドは詩人であり、批評家であった。『文化と無秩序』においてアーノルドは文化の側にイギリスを、無秩序の側にアイルランドを躊躇なく分類するなどして、アイルランドにおいても評判がすこぶる悪い文学者である。真と善(「光」)、さらには美(「甘美さ」)こそが理性に適った文化の、したがって近代社会の土台であるべき、ということであろう。いわゆる啓蒙主義であるが、ジョイスが『ユリシーズ』の中でオックスフォード大学の構内で草刈りに興ずるアーノルドを描いていたことを思い出す。「草刈り」はイギリス人が好きなガーデニングへの揶揄であるが、それと同時に「秩序」としての「文化」への揶揄でもあろう。アイルランドは草がぼうぼうの荒地であると。

「大衆文化」と「高級文化」の区別に金泥することは止めたい。古すぎるからである。ただ対立こそ今はしてないと言えるけれども、それらは依然並立したままであり、そうでなければこれらを同時に語る言語、学問が存在していないだけなのである。

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