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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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ちょっと考えがまとまってきたので、私のツイートを時系列に並べておく。

ライムスター宇多丸の映画レヴューが小気味いい。松本人志と品川ヒロシの映画を酷評しまくり(笑)。言ってることほぼ正しい。

あれ?意外と松本人志の『R100』面白かったぞ。ストーリー展開にはそりゃ無理あるし、メタレベルで作品をわざわざ酷評して見せたりしてあざといと言えば確かにそうだが、従来の映画とも純然たるコントとも言えない独自の世界があるように思ったけどな。

ちょっと軌道修正。もう一回ライムスター宇多丸の映画評を聴いてみよう。

『R100』
via McTube for YouTube.
https://www.youtube.com/watch?v=0RZW3CoFVDw
『しんぼる』
via McTube for YouTube.
https://www.youtube.com/watch?v=UhlM_00kEdQ

メタレベルのシーンを取り込み、そこで当の映画が100歳の名も知れぬ老監督の作品だと仄めかすことで松本は作品に対する批評を狡猾に回避している、と言うけど、そうかなあ。そうは感じなかったな。

松本人志の映画はわざわざ映画館にまで観に行こうとは思わんけど、言われるほど酷くもない。スーザン・ソンタグが日本のゴジラ映画を称して使った「キャンプ」てのが松本作品には当てはまるように思う。深みを求めない表層的な違和感。

松本人志監督『シンボル』視聴了。悪くはないんじゃないこれも?

んー、「神」をあまりに無造作に扱ってる、て批判されてるけど、松本にとっては宗教含めて様々な現実もパロディーの対象に過ぎないんじゃないかな。敬虔なクリスチャンがそれを批判するんだったらそれはそれで分かるけどね。

密室で脱出しようにも脱出できず、でも様々なモノは与えられるという設定はドリフ的でもあり、ベケット的でもある。ソンタグが「キャンプ」を論じた小論とベケット論とアルトー論が同じ論集に収められていたことは示唆的かも。

スーザン・ソンタグ『反解釈』http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0-%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3/dp/4480082522/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1417511169&sr=1-1&keywords=%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B0+%E5%8F%8D%E8%A7%A3%E9%87%88

ソンタグの美学批評は古いっちゃあ古いな、もはや。世代というか、ぼくにとっても記憶にある初めての映画は『ゴジラ対キングギドラ』だったと思う。父親に連れていってもらった。でもこの映画体験は大きいと思うよ、ぼくや松本の世代にとって。

松本人志も観てたに違いないゴジラ映画やウルトラセブンの特徴って(大人から見れば) 滑稽な誇大妄想的な世界観だと思う。ソンタグはその特徴を「キャンプ」と名付けた。で、ぼくはこの誇大妄想的な世界の根底に現実世界に対するニヒリズムが横たわっていたと思うんだよね。

ニヒリズムって何?て問われたら、絶対的な価値の喪失と答えたいんだけど、それは基本的にはニーチェ以降の西欧の状況なわけ。ベケットやアルトーの演劇はまさにその価値の喪失を問うものだった。日本の場合はちょっと違って諸行無常の感覚、それも仏教的というよりも「空っぽ」に近い感覚です。

それも一種のニヒリズムと呼べるならそれこそゴジラ映画や松本人志の映画に流れているものであり、ぼくの中にも脈々と流れているものだと断言できる。必ずしもこのニヒリズムは悲観的な暗さを画面にも、人生にもたらさない。ライムスター宇多丸は浅薄な歴史観て松本を批判するけど、

歴史はすでに止まってるんですよ、感覚的には。でもその歴史の終わりに「終わり」はない。この感覚はどん詰まりではあるけど、歴史からの解放でもあってね。だから乾いた笑いは可能なんです。ライムスターが批判する『しんぼる』での松本によるイエス・キリストへの擬態もね、

どちらかと言うと麻原彰晃を彷彿とさせるチープさであってね、だからこそやっぱり深刻な面はある。イエスというより麻原ね。

松本信者と思われるのは困るのだが、オウム事件が松本人志という芸人というより人間にさえも傷跡を残していること、自分の中の麻原的なものを表現しつつ、それを陳腐に相対化することでギリギリ批評たりえていること、この点は評価できると思う。

オウム的なもの、または麻原的なものってニヒリズムの超克だとおもってて、松本人志の「笑い」はニヒリズムを乗り越えることなんて無理なんだって、て言ってるような気がする。積極的でも明るい笑いでもなく、どちらかと言うと諦念に近い笑いだけど、でも笑って生きていくしかないでしょ。
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「仮構と倫理ーー大江健三郎と三人の自死者について」。

『サブカルチャー文学論』の中でも出色の出来です。とても自称「オタク」代表の漫画原作者の文章とは思えない。

またまた大塚英志です。

かなりのページ数のエッセイであるが「三人の自死者」とは映画俳優・監督の伊丹十三、作家の三島由紀夫、文芸批評家の江藤淳のことである。

『文学論』自体が江藤淳の勧めで始めた文学評論だったようであり、その意味ではこの戦後日本文学の重鎮に対する感謝の念のようなものが全体に漂っている。実際のところ一漫画原作者と日本文学界の重鎮との邂逅というのはいつかはありえたかもしれないと思っていたが、すでに起こっていたのである。江藤淳の自殺(1999年)という衝撃の出来事が大塚の「文芸批評」という異種格闘技のような執筆を後押ししたことも確かであろう。

それでも大塚の批評の矛先が江藤淳の「文学」にまで鋭く向けられているのがすごい、というか緊張感がみなぎる。一旦は江藤の思想、「仮構」(それが小説世界であれ、なんであれ)と「現実」(それが戦後であれ、なんであれ)の間に生まれる軋轢というか齟齬に対して目をつむったり、割り切ってはならない、というどちらかというとありふれた思想をそのまま肯定する。しかし戦後日本のリアリティーの質が(大塚は1971年ごろを境に)決定的に変わってからはこの江藤の思想を全うすることが実に困難になった、と言う。具体的には近代以来続いてきたリアリズムに基礎を置く「小説」というものの不可能性が決定的に顕わになった、ということだ。

大塚は言葉を選んでおり、その点慎重だがありていに言えば「ポストモダン」ということになる。

大塚の議論を要約してしまうと仮構の「私」と現実世界の「私」の間にある齟齬を割り切ることなく「屈託」した三人の表現者が自殺に追い込まれ、「現実」を「文学」としてしてしか認識せず、両者の齟齬に「屈託」がない大江が生き残っていることに違和感を感じる、というものである。

映画監督の伊丹が三人の中に挙げられているところから「文学」と映像文化、ひいては「消費文化」に大塚が区別を設けていないところに「あーここまで批評は来たか」という感想を持つが、どちらにしても齟齬を生き抜くことが漫画家にとっても、映画作家にとっても、また小説家にとっても「倫理」だということだ。

ただし大塚は江藤の欺瞞にも目をつぶらない。江藤がアメリカ留学から帰国してしばらく経った頃、資産家である父親の信用にすがって金融機関から金を借りるエピソードが紹介されている。

「「個」として一定のルールの許にフェアーに「適者生存」を争っていくという江藤のアメリカで見出した原理は実はここで放棄されているのである。それ自体が仮構であることは議論の余地がないにしても、保守思想の拠り所である「大地と過去」の上に構成された「日本」に「拘束されること」と、父の信用で金を借りることが曖昧なままに混同されている。些細なことだが、ぼくはここに江藤、もしくは日本の保守思想の「弱さ」を見るのであり、それは柳田のいう「束縛」も、柳田家の養子となって夫人の閨閥に入る実際的な側面があったことを考え合わせる時、やはり江藤個人の問題にとどまることではない。「現実」に束縛されることが既得権の継承を現世的には意味し、しかし、「血縁」や「伝統」に束縛されることだとそれを言い換えるところに保守思想の隘路がやはりある。」(pp.655-656)

柳田國男まで出てきて文脈が分かり辛いかもしれないが、ここで大塚は日本の近代以降の「文学」のあり方を一刀両断にしてしまう。「既得権益」(資産家の家族にぶらさがること)を「伝統」に接木して「文学」の正統性を主張することの詐術が端的に断罪されている、と言ってよい。

私も柳田民俗学には相当お世話になったことを白状しておくが、大塚の議論には説得力があると言わざるを得ない。それが大方のサブカルチャー側からの「文学」への異議申し立てではあるとしても。江藤や柳田國男だけではなく、三島に対しても厳しい大塚ではあるが、もっと性質が悪いのが大江健三郎だというのが本論の主張である。必ずしも「表現」や「仮構」構築そのものを否定しているわけではない。モダニスト江藤淳の自己矛盾に陥りながらも現実と仮構の齟齬にのたうつ姿はやはり胸を打つ。

「仮構」に魅入られながらもその欲望をどうにか制御しようとした三人が自殺に終わったことはなおさら痛ましい。

個人的には三島の小説を大学に入る前後に熱中して読んだ私がおり、ほぼ10年前ほど前に大江の小説もかなり真剣に読んだ。私が彼らの「文学」を文学たらしめる巧妙なレトリックにいささかでもひっかっかっていたことは認めなければならない。「文学」の外側にはその詐術を見抜く感受性が育っていた、ということにちょっとした眩暈を感じている。
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M大学の修士時代に知り合った先輩である佐藤亨氏の本『異邦のふるさと「アイルランド」』(新評論社)をほぼ読み終わった。

氏とは10年以上前にポール・マルドゥーンの詩集の翻訳と論考集でご一緒させて頂いた貴重な経験がある。

実は去年の「セント・パトリックデイの集い」(日本アイルランド協会主催)で見本として置いてあったものを直接頂いてから今日まで読破していなかった悪い後輩の私であった。

佐藤氏はもともとT.S.Eliotの研究者であったが、共通の指導教授の影響もあってシェイマス・ヒーニーやマルドゥーンといった北アイルランドの詩人に傾倒していった。その途中で1994年に『おどるでく』で芥川賞を受賞した室井光広氏と意気投合し、ヒーニーの随筆を共同で翻訳などもしている。

なんと言えばいいんだろう、この本の充実ぶりには目を見張るものがあり、改めてこの先輩の凄さを実感した感じだ。

論文などを基にしてるとはいえ、本人のアイルランド体験をふんだんに採り入れ、その上できめ細かく正確な情報を記載していて、すばらしい。でも一番感心するのは氏の詩情豊かな日本語である。詩情とデータの正確さ、これがいい按配になっている。

残念ながら題材がヨーロッパの小国アイルランドで、その多くは詩人の作品から透かし見ている体のものなので売れることは期待できないだろうが、文学者の良心のような風格が漂う。

私が口惜しいのは10年以上前にマルドゥーンの翻訳と論考を一緒にまとめていたときに、The Poguesのことを氏に紹介したのは私だったはずだ、ということである。この『異邦のふるさと』でも何回かザ・ポーグスに関して論じられており、「幾千人もの人が船出する」という曲を19世紀の大飢饉、そこから加速した移民の歌として実に詳細に紹介している。

The Poguesはパンクとアイリッシュ・トラッドを融合して成功した唯一無比のバンドであり、本来なら私が真っ先に書かなければならない題材であった。

ただし氏のポピュラー音楽の扱いに対しては不満がある。氏の視界には北アイルランドの消費社会とかそこに根付いた消費文化というものが入っていない。消費文化は基本的には労働者の文化、または労働者階層の者たちが苦労して作ってきた文化である。いや最終的には階級にこだわる必要はないであろう。元来エンターテインメントは定住地を持たない、最下層階級の市民にも属さない流浪の民が担っていたものであるからであり、いわば「見世物」すなわちフリークスだったからだ。

Here we are now, entertain us
(俺たちはここに居る、さぁ愉しませろ)
I feel stupid, and contagious
(俺が間抜けみたいに感じるぜ、しかも伝染する)
Here we are now , entertain us
(俺たちはここに居る、さぁ愉しませろ)
Amaretto, an albino, a mosquito, my libido,
(アマレット、アルビノ、蚊、俺の性的衝動)
Yeah! Hey. yay.
             (Nirvana, 'Smells like a teen spirit')

自殺したカート・コバーン(1967-1994)の怒声がここで思い出される。風変わりな酒や蚊やアルビノが同居するなんともいかがわしい盛り場で、客の一人に扮したコバーンは「さぁ愉しませろ」と舞台上の芸人にわめき散らす。

実はコバーン自身がステージ上で要求されていることなのである。「さぁ愉しませろ」と。

芸人(エンターテイナー)はそのようにわめき散らす「民衆」の一部なのではない。そうではなくて「民衆」を愉しませることでやっと生計を立てていかねばならないフリークスだったのだ。

氏は文化に対して徹頭徹尾言葉と「歌」からアプローチを試みる。北アイルランドのミューラルに描かれた絵や言葉から数世紀に渡る分断の歴史をまさに「歌」として再現しようとする氏の試みは見事だ。だから音楽も流れているわけだが、氏の耳に聞こえてくるのは「民衆」の歌謡の調べであって、民衆の一部でさえない芸人の歌ではない。フリークス芸人の歌は近代の資本主義の中で民衆を愉しませる音楽、とくにその権化と見なされがちなロック音楽へと引継がれる。

浮薄な文化産業にまみれたロックにも氏の気づかない哀しさや希望がある。この「希望」は国籍も土地も持たず、したがって歴史からも自由であることにその一端があるとはいえ、だからこそ哀しさの裏返しなのだ。

だがそれが文学者ではある。詩情がやさくれたパンク青年に伝わるかどうかはちょっと怪しい。

「ふるさと」や民族の記憶を共有するような感傷を彼らは持たぬであろう。

経済資本のみならず文化資本さえ乏しい「未来のない」者にとって文学は、すべからく詩は、知的エリートの文化であり、反抗すべき文化なのである。"fili"とは中世アイルランド島に存在していた「吟遊詩人」だと言われているが、「吟遊」などしていない。彼らは領主の廷臣であり、文化エリートだったからである。

芸人はその代わりにロックンロールという表現手段を20世紀に発明した。下品で粗末な、それでいて荒々しいエネルギーに充満した表現形態。ロックンローラーはむしろ自分の出自を括弧に入れて、アフリカ系移民のような「他者」にこそ共鳴して、「暴動」("riot") を画策する、というより夢想する。

もちろんポーグスのショーン・マッガワンはパンクとしてスタートしながらも民謡を題材にして「アイルランド」に回帰したミュージシャンだとは言えるだろう。しかし彼の根本はパンクロッカーであり、芸術や文学とは何のかかわりを持たない(持てない)フリークス文化、消費文化の担い手なのである。

でも私にも文学者としての教養がある以上この本が立派な本であることを素直に認める。

*カート・コバーン率いるNirvanaの歌詞はhttp://madteaparty.seesaa.net/article/24443428.htmlから引用させて頂いた。
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