忍者ブログ
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[08/01 くっさん]
[07/29 kuriyan]
[06/10 くっさん]
[06/10 くっさん]
[06/10 山田]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
Kussan
性別:
男性
自己紹介:
研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
バーコード
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
[1] [2]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『言葉なき行為-1』('Act Without Words-1')

動画はここ↓
http://youtu.be/Qb_eMMqUjTA

1958年初演の1幕ものの劇。作者によって「一人の役者のためのパントマイム」と戯曲に副題が付されているからして、チャップリンやバスター・キートンなどの喜劇役者を配役することを念頭に書かれたものと思われる。

作者はサミュエル・ベケット。アイルランド出身でありながら人生の多くをフランスで過ごす。劇作家として最も知られているが、劇作以外にも小説を多数書いており、作風は演劇、小説ともに「不条理」を特徴とする。文学史的には「不条理演劇」("Theatre of Absurd") の中心人物と目されている。

ちなみに世紀の喜劇役者キートンとは自身が脚本、監督した『映画』('Film') にてコラボしていて、いかにベケットの作品が喜劇と相性がいいかを物語っていて興味深い。特に『ゴドーを待ちながら』という作品は日本でも多くの劇団やコメディアンが上演しているほどである。

さて『言葉なき行為1』であるが、以下の三つの層の複合体としてぼくは理解している。

1. ドリフ的なコントの層。「不条理さ」を楽しむレベルであり、エンタテインメントとして消費できる。

2. 作品の意味の層。主人公のドタバタを人生の寓意だと捉える場合、そこに人生哲学を読み取ることができる。ニヒリズム。

3. 「演劇」とは何かを問う層。俳優と劇作家、演出家の権力関係の寓意。力の政治学。

ベケットの演劇全般に言いえることは彼が演劇という表現形式にきわめて自意識的なことであり、舞台で繰り広げられるストーリーとは別に、いやそれと同時に「演劇」そのものが常にテーマになっている。したがって3つめの層に最もベケットらしさがある、とぼくは考える。ただし、上の3つの層が絡み合って始めてベケットの演劇は面白く、かつ深遠なものとして受容されているはずである。

いや、聴衆としてはドリフの層だけを楽しむのも間違いではない。でもそれではベケット劇の魅力が半減してしまうように思う。以下それぞれの層をもう少し詳しく解説してみよう。

1. ドリフ風のコントの層。最もベケットの喜劇性が発揮されている層であることは言うまでもない。中天から鋏が降りてくるところなど「志村、後ろ後ろ!」と主人公の俳優に声をかけたくなる。箱を積んで転ぶところなどはチャップリンのパントマイムを思わせもする。

2. 作品の意味の層。ホイッスルを誰が吹いてるのか、なぜこの主人公は砂漠から逃げ出せないのか、そもそもなぜ主人公は砂漠と思しき場所にいるのか、そして最後になぜ鋏は渡すのに「水」と書かれたボトルのみは主人公に与えないのだろうか、こういった疑問に答えるには、我々人間の生活と生存が究極的には「神」によって握られている、と考えるのがもっとも合理的だろう。ただ決定的なのは砂漠で生き延びるのに必須な水のみが与えられないことである。

ホイッスルと様々な道具に翻弄されたあげく主人公は水のボトルを手に入れるのを最後には諦めてしまう。その諦めた瞬間に水のボトルが主人公の目に前まで初めて降ろされる。しかし男は目の前にぶら下がっている「水」と書かれたボトルをぼんやり眺めるばかりである。そうなると、人生は諦めが肝心だ、というニヒリスティックな人生哲学を読み取るか、人間は無力だとはたまた悲観論に陥るかのどちらかだろう。

ところで主人公の男はついに縄梯子を木の幹に引っ掛けて首を吊ろうとするが、幹がダラーンとなって失敗する。つまり生きるも死ぬも人間の意のままにはならない。

3. 俳優と劇作家、演出家の関係。舞台の裏方さんがホイッスルを吹いたり、縄梯子を垂らしたりしているのは明白ではあるが、そうさせているのは劇作家=演出家のベケットであるから、主人公の男の生存を握っている「神」とは作家=演出家のことでもある、と言える。少なくともそう理解するように促されている。舞台の世界と舞台を成立させている現実の世界の垣根が壊されているわけである。この見地に立てば、俳優とは作家=演出家の実験台であり、実験用のハツカネズミであることになる。

以上簡単に3つの層を分けて解説してみたわけだが、この3層が絡みあっているのがこの『言葉なき行為-1』という演劇なのであるから、より一層精緻な分析が必要とされるに違いない。でも今回はここまで。
PR

『ハムレット』を読む (1)

オフィーリアはどちらかと言うとこの戯曲の中では端役なんだけど、それだけかわいそう感がけっこう強い。クローディアス王の廷臣筆頭で現在の総理大臣にあたる政務トップであったポローニアスの娘であり、終幕でハムレットと剣を交えるレアティーズとは兄妹の関係です。ハムレットとは恋仲であり、つつがなくハムレットが王位につけば妃として迎えられたんじゃないかなと思う。

でも、「つつがなく」とはどうしても行かないんですよね。悲劇ですから(笑)。

ポローニアスはクローディアス王の腹心であって、そのクローディアスは父であった先王ハムレットを毒殺して王位につき、よりによって先王の妻であるガートルードを妃にしちゃってるわけで、その息子や娘が悪い影響を受けないはずがない。でね、ネタバレになりますが、母親と話し合いをもっていたハムレットによって、盗み聞きをしていたオフィーリアの父親は殺されてしまう(第3幕4場)。どう考えてもハッピーなカップルに発展しようがない。兄であるレアティーズにも「身分の違い」を理由にハムレットとの関係に懐疑的であることを告げられたり、、、(第1幕3場)。

で、オフィーリアのことが特にかわいそうに思うのはハムレットの偽装された狂気とは違って、彼女の狂気が本物であることにあるように思う。ハムレットへの愛はまっすぐで疑いようがなく、復讐に燃えるハムレットに袖にされたり、ハムレットの狂気の原因を探るためにクローディアス王に利用されたりと完全に翻弄された挙句、最愛の男による父親の殺害が起こります。狂うね、確かに。

以下に紹介するのはオフィーリアがほぼ自殺に等しい溺死を遂げる直前にクローディアスの宮廷に登場する場面(第4幕5場)。リュートといういう楽器を吹きながら舞台に登場し、歌を歌いまくる。その歌詞がかなり際どくて、かえって彼女の傷の深さが浮き彫りになる、そんな印象です。

'Tomorrow is Saint Valentine's Day,
   All in the morning betime,
And I a maid at your window,
   To be your Valentine.'  (lines 47-50)

「明日は聖バレンタイン・デイ、
   早くから午前中ずーっと、
私、一人の乙女があなたの窓辺に隠れて、
   お嫁さんになれることを祈っています。」

シェークスピアが生きていた時代のバレンタイン・デイは現在の、また我々日本人のものとは異なって、この日に初めて顔を合わす男女が結ばれるという伝説があったそうである。「乙女」と訳したのは "maid" に「処女」という含意があるからだが、それが次のスタンザ(連)で生きてくる。

Then up he rose, and donned his clothes,
   And dupped the chamber door;
Let in the maid, that out a maid
   Never departed more.   (51-54)

それから彼は起き上がって、服を着て、
そして部屋の戸を開けたのです。
その乙女を部屋に入れると、
二度と乙女が部屋を出てくることはなかったのです。

二度と「乙女」が部屋から出てくることはなかったというのは、この歌の女主人公が実際には男の部屋で処女を失った、ことを意味します。この歌の流れにハムレットとオフィーリアの関係への揶揄を認めることは難しくないな、と。議論はいろいろあるようですが、肉体関係はあったと考えるのが自然ではないかな。この後の連からは男一般への呪詛が下品な宣誓の言葉(oath)を伴って続きます。

By Gis, and by Saint Charity,
   Alack, and fie for shame!
Young men will do't, if they come to't,
   By Cock, they are to blame.

Quoth she 'Before you tumbled me,
   You promised me to wed.'
'So would I ha' done, by yonder sun,
   An thou hadst not come to my bed.'   (57-64)

イエス君と慈善様にかけて、
あらまあ、なんてまあ恥知らず!
若い男たちはやっちゃうのよね、女が来るとなると、
ちんこ様にかけて、男たちこそ非難されるべきよ。

彼女はそのときの会話を引用する、「私を仰向けに倒したとき、
あなたは私に結婚の約束をしたわ。」
「結婚してただろうね、お天道様にかけて、
もしも君が僕のベッドにやって来たりしなかったらね。」

まあ言い方は下品だけどやり逃げされた、ということになる。性的な表現に満ちてます。ハムレットのオフィーリアに対する愛情が本物だったかどうかは、テクストから読み取るほかはないのだけれど、それを疑がう証拠も見当たらない。「尼寺へ行け」("To a nunnery, go.") という有名なハムレットのオフィーリアへの言葉にしても、父王の弟(ハムレットにとっては叔父)とあっさり再婚した母親に対する不信感から出た言葉であって、むしろ修道院("nunnery")に隔離されていて欲しいという風に読める(第3幕1場)。結婚という聖なる制度への絶望と言ってもいいんじゃないかな。

「聖なる」ていうのは大げさと言えばそうだが、王家の家族、婚姻関係というのは国民全体の規範であってね、近親相姦というのはやっぱりまずい。『ハムレット』の舞台設定はルネッサンス期のデンマークであり、現代日本における天皇家と比較するのは無理があるけど、当時の絶対王政における王と王家の国民一人一人への影響は物理的にも、心理的にも大であったことは想像できる。そういうわけでオフィーリアという一人の女性の立場に立てばやはり理不尽で、可哀想な状況だと思う。

どちらにしてもオフィーリアのような貴族の子女が人前で歌うような歌ではないし、まして王や王妃の前で歌うとなるとその精神状況はそうとう深刻と言わざるをえないね。

*底本として使ったのは Oxford 版で、四つ折り本第2刷(1604-5に出版)を最も信頼して編集していることを特徴としています。『ハムレット』も他の作品も一つじゃないんですよね。その辺はまた改めて。
サブカル化。

これは自殺した江藤淳の問題意識であり、それを引き継いだ大塚英志のテーマであるが、これも間違いなく私の取り組むべきテーマである。

さて大方日本の「文学」に対する感受性は私の場合吉本隆明を経由しているので偏りはある、というか古いかもしれない。しかも90年代以降は娘ばななの時代なのだから。

吉本を安保闘争時代の左翼理論家として理解するか、いわゆる文芸批評家として理解するか、ばななの父親として理解するかは各人の勝手だが、私にとっては「詩人」である思想家であることに意味があった。

学部時代に吉本に出会った私は『共同幻想論』から柳田國男、折口信夫などの民俗学を読み漁った。恐らく左翼理論家だった吉本の「保守」の匂いはこの正統的な日本文学への「好み」(趣味)にある。それは私にも伝染したものだ。左翼運動家で親友だったSとよく議論・喧嘩した。

さて日本の詩人では金子光晴、中桐雅夫とか好きな詩人が数人いるが、やっぱり長谷川龍生に止めをさす。谷川雁や吉本に繋がる左翼系の詩人ではあるが抜群の言葉のキレ、これこそがこの詩人の生命線だったと思う。

きみも、他人も、恐山!
悲しみも、こごえる、人の世の断崖。
霧のたちこめる怨霊の空のはて。
さまよう個人主義者の自殺する空井戸。
きみの、その、覆面の下の白い顔。
きみの、その、仮面の裏の汚れた顔。
きみの覆面、きみの仮面を
はぎとり、殺してゆく
他人の覆面、他人の仮面。
きみも、他人も、恐山!
きみも、他人ものぼっていく。

この一節は初期の傑作中篇詩「恐山」からだが、どうですか、パンクでしょう? 「きみも、他人も、恐山!」のリフレインがロックというか、こりゃ「筋肉少女隊」か?

それはそうと「文学のサブカル化」というテーマは恐らく私の場合吉本親子「文学」の在り方の違いとして立てられるのではないか、と思う。ばななは私と同世代、しかも私は隆明を「父」のように慕ってきた人間であるから・・・。

長谷川龍生については:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E7%94%9F
stifflittlefingers.jpg

日時:6月23日(土)午後3時より
会場:立教大学 13号館 会議室 (会場にご注意下さい)
「都市ベルファーストとパンク
——Tara Westの'Fodder'を読む」
九谷浩之

 第二次世界大戦後のベルファーストの住宅事情と宗派対立を背景として、1970年代の「騒動」の時期から90年代のグローバル化時代へと変遷する都市を'Fodder'に登場する母親(カウンターカルチャーを代表する第一世代パンク)と息子(第二世代パンク)の物語から浮き彫りにする。本論では消費文化としてのパンクがいかにしてベルファーストに発生して変貌を遂げていくかに注目し、1998年の「聖金曜日合意」以降に予想される「アノミー」の諸相を確認してみたい。優勢な宗派対立の記号の下で消費社会のモノ=記号の社会論理がどれくらい「騒動」に対立し、寄与していたのか、それを測定するのも課題の一つである。

当初の要旨とは少し重点がずれてしまった。でも北アイルランドの研究者に消費社会論がほとんどないことに違和感をずっともっていたので、思い切ってやってみたいと思う。

歴史学的な研究、政治学的な研究が優勢なのはしょうがないが、それらを補完するような議論になれば幸いである。

最近のベルファーストの青少年に蔓延している自殺はとてもショッキングであり、それは事実上和平がなされた後だからこそ深刻なのである。「紛争」のトラウマだけで説明できるものとは思われない。

とくに北ベルファーストのアードイン地区の自殺率の高さに注目する。以下はこの問題に取り組んだサイト。
http://www.fotoco.dk/flash/ireland/UK/indexUK.php

そういうわけであまり音楽の話にはならないかもしれません。

1時間半から2時間はしゃべると思うのでお気軽にどうぞ。
月一のイエーツの読書会。

この会10年くらいは続いていて、私が参加してからは4年くらいが経つ。リーダー的な人とけんかして殴ってからは3年くらいかな。「殴った」というのは大袈裟だけど、あまりにもこのおじさんしつこく絡んでくるので、頬を軽くはたいた。

それ以来このいい歳のイエーツ研究者は来なくなった。

大方毎回詩を3ページ分くらいを2時間半ほどかけて読み合う(朗読、訳、解釈を含めて)。詩によっては10行くらいを一時間かけて読まないといけないときもある。一人で読むには難しすぎて分からないのだ。

「詩」というと部外者の方々にはなんともポエムというかファンタジーな世界を思い描いて「ちょっと勘弁」となるのだろうが、

そんなことはないですよ!

イエーツの詩の世界を単純化すると、アイルランド独立運動、オカルト、欲望(特に性欲)、こんな感じだ。とくにイエーツの「性」への執着は凄まじいものがある。昨日読んだ詩でそれを再認識した形。

イエーツはオカルトの影響でこの世とは別の実在の世界(アニマ・ムンディと彼は呼ぶ)を想定しがちなのだけど、止みがたい性の渇きががっちりとこの世に縛り付けているわけです。困ったことに老人になればなるほどその執着がイエーツの場合激しくなる。

常識的に彼の詩を読んでいくとどうしても「変態じじい」なのである。

まあこのスケベさがイエーツの魅力なんだけどね。

The first of all the tribe lay there
And did such pleasure take ---
She who had brought great Hector down
And put all Troy to wreck ---
That she cried into this ear,
'Strike me if I shriek.'
(A Man Young and Old)

その部族(トロイ人)の一番の者(女)がそこ(私の腕)に横たわった、
そしてあまりもの快楽を味わったーーー
彼女、偉大なヘクターを破滅に導き、
そしてトロイの全てを灰塵に帰した女はーーー
(私の)この耳に「私がもし叫び声を上げるようでしたら、
叩いてください」と泣いて懇願するほどに。

一応説明的に訳してみたけど、イエーツの個人的な性体験をトロイ戦争の原因となった美女ヘレンを抱いた男の記憶に重ね合わせているんです。

どちらにしてもエロい、'Strike me if I shriek.'

この詩を書いたのはイエーツが63歳くらいのときである。自分の女性体験をかなり生々しく回想する詩人であるなー。

この性/生への執着がこの詩人をファンタジーの世界というよりも俗世の世界に思考を引き留めるのである。

けっこうイエーツが好きになってきた!
忍者ブログ [PR]