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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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The Undertones。もちろん'Teenage Kicks'です。



昨日はユンさんと後輩の佐藤君の合同研究会に行ってきた。ユンさんの発表は著書『暴力と和解のあいだ』(法政大学出版)を中心に、佐藤君は文学代表として北アイルランドの文化政策における「詩」の役割を巡って、というもの。文学や「詩」が文化政策の中心にある、というのがいかにも異常だが、様々な芸術形態のうち「文学」だけが突出した成果を挙げてきた南北アイルランドの現状を見れば仕方ない面がある。私も文学には随分ぬかるんでいるから責任はある。

でも北アイルランドにはパンクもあるよ、ということでアンダートーンズの登場である。フィエガル・シャーキーの声質はいわゆるデス声ではなくハイトーンなのであるが、なかなか。

来年2月に澁谷のユーロスペースで開催される「N.アイルランド・フィルム・フェスティヴァル」でなんらかのお手伝いをすることになった。70年代後半の北アイルランドパンクを取材した映画「シェル・ショック・ロック」が上演作に含まれているからだ。

ベルファーストのスティッフ・リトル・フィンガーズ、デリー/ロンドンデリーのアンダートーンズが二大巨頭だが、この前主催者から送ってもらったDVDを観てみると、けっこういろんなパンクバンドがあったことが分かる。でも路上のインタビューなんかで聞かれる北アイルランド訛りの英語は聞き取れんわ、まいった。これから字幕やら付けるんだろうけどパンクバンドの演奏シーンにしても歌詞カードがないときついよこれ、うーんちょっとしたレクチャーならできると思うが・・・。

言い訳はできんな。
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渋谷系へ。



それこそ俊輔が在籍しているセルティックスの本拠地グラスゴーはネオアコ、その後のヘタウマインディーズバンドの中心地だった。当然リヴァプール同様アイルランド系移民が多いわけだが、オレンジジュースのソウル好きも「ノーザン・ソウル」というクラブ動向があったからだろう。

さて「渋谷系」もその内実は様々だと思うが、イギリスのネオアコの流れ、アメリカの60年代ポップス(ソフト・ロック、ビーチボーイズ、フレンチポップス)の流れ、それらが日本のロック・ポップス(ナイアガラ・トライアングルを巡る)と合流することで成り立っていたのではないか。

カジヒデキのBridgeは音楽的にはフリッパーズ・ギターのネオアコの部分を強調したバンドだったように思う。

スポークスマンとしての小西康陽(ex.メロン、ピチカート・ファイヴ)が影響大だったことは間違いないが、大方彼を中心とした「渋谷系」の戦略に乗せられていた私ではあるがピチカートだけは一切聴かなかった、というか思いっきり避けた。

お洒落すぎたからである。

しかしセルジオ・メンデス、ロジャー・ニコルズ、クローディヌ・ロンジェ、ハーブ・アルパート、つまりA&Mレコーズ関係の音楽を聴いていた私はやはり「渋谷系」の圏域に包まれていた。バート・バカラックもね。

「渋谷系」の流れはラウンジ・ミュージックなどの流行に引き継がれていったけど、90年代後半のビーチボーイズ再評価の波は凄かった。といっても皆「Pet Sounds」を聴いていたわけだが・・・。ショーン・オヘイガン、ステレオ・ラブ、マーティン・ニューウェル、ここら辺はみんな「ペット・サウンズ」のような「トータル・アルバム」を目指していたように思う、エレクトロな、または民謡調の「ペットサウンズ」。

さてyutabou氏のヴィーナス・ペーターはこの「渋谷系」の流れでどこ辺りにいたかというとよりネオアコをベースに「マンチェスター系」の音を志向していたように思う。かなりロックだった。サイケ、ハウス・・・、プライマル・スクリームかな近いのは。

ヴォーカルのOさんはまたソウル好きを自認していたなあ。やはりグラスゴーのクラブシーンというのが重要だったということか?

いろいろ考えることはある。

動画はチェリー・レッドレーベルのFelt'Primitive Painters'。コクトー・ツインズのエリザベスとの競演。いい!

「ノーザン・ソウル」は60年代にイギリスの一部の若者がクラブのような場所で聴いていたアメリカのソウルミュージックだ、と知人に指摘を受けた。訂正します。
とは?

ノーザン・ソウルという言葉はよく聞く。イギリスで黒人音楽に影響を受けた白人のソウル・ミュージックということであろう。ということはアイリッシュ・ソウルもこのノーザン・ソウルの一種なのか?

まあ多分そんなに遠くない推測である。

Nuala O'Connorの本「Bringing it all back home: The influence of Irish music」が「アイリッシュ・ソウルを求めて」と邦訳されているところを見てもどうやらこの推測は間違ってない。

さて、オコナーの本の出だしはどうかというとこうである。

I have a theory that soul music originally came from Scotland and Ireland. ---- Van Morrison

「私にはソウルミュージックがもともとはスコットランドとアイルランドに起源を持つ、という理論を持っている」---ヴァン・モリソン

「起源」という言葉は訳としては強すぎるかもしれないが、ロック音楽界最後の大物ヴァン・モリソンの主張は大方そういうことである。それほど詳しいわけではないがヴァン・モリソンと言えばストーンズなどと同時期に活動を始めたロックバンドThemが有名であるが、ソロになってからもブルースを中心にソウル、トラッドなどにも幅広く音楽性を広げ、一部に熱狂的なファンがいるミュージシャンだ。つまり影響力がある。

一言で言えばヴァン・モリソンの理論はロックやその後のポピュラー音楽の源泉にアフリカ系アメリカ人のブルース、ジャズを置く一般のポピュラー音楽理解とは別に、または並列に、アイリッシュとスコティッシュを置く、という戦略であり、「政治」である。イングリッシュ、またはブリティッシュと言ってないところがミソではあるが、どうしてこうなるのか?

カルチュラル・スタディーズ系のポピュラー音楽研究との「政治」の違いは明らかだ。カルスタ系だとポピュラー音楽の起源がアメリカの黒人(アフリカン・アメリカン)であることは決して揺るがない。(もちろんこれにも多少の重点の置き方に違いはあろうが。)

さて具体的にオコナーはこのヴァン・モリソンの言葉を引いた上で次のように書いている。

Irish traditional music, then as now, was primarily dance music, jigs, reels, and hornpipes, played by rural working people for communal celebrations and events, such as fairs, weddings, wakes, and so on. In the case of America, Irish traditional music and song merged on the Appalachian frontier with other indigenous music to form American folk music, and further south with the music of black slaves to influence the blues.

ちょっと長いが簡単にするとこうだ。アイルランドの伝統音楽は移民とともにアメリカに渡り、アパラチア山脈辺りで(先住アメリカ人などの)土着の音楽と混ざり合い、フォークミュージックを形成し、もっと南の方で黒人奴隷たちの音楽と混ざり合ってブルースに影響を与えた、と。

カントリーやブルーグラスのような基本白人のポピュラー音楽に影響を与えたのは分かり易いが、ブルースやソウルはどうなんだろう?

この議論の流れに以前私が書いた学会のパネルがある。当然というべきかどうかは分からないが、カルスタ系のポピュラー音楽研究にはこういった議論はまずない。ヴァン・モリソンもまず出てこないし、アイルランドへの言及もほとんどない。

単純化すればカルスタの「政治」とアイルランド研究の「政治」がまるで異なった方向を向いてるからだが、ではどちらにもかかわっている私はどうすればいいのか?

実証的にというより政治的には6:4でカルスタの「政治」を私は支持する。アメリカの黒人がポピュラー音楽の原点で「よい」し、その代りアイリッシュ・アメリカンの貢献もそれなりに評価すべきである。またマージービートを生んだリヴァプールのアイルランド系移民の貢献も評価すべきである。ポール・マッカートニー、ジョン・レノンはアイリッシュ系であった。「優等生」的に思われがちだがザ・ビートルズの音楽は貧しい「不良の」アイルランド系移民が作った音楽であった。

でも6:4とか煮えきれないことを言ってるから私はどちらの「政治」からも周縁化されてしまうのかもしれないが・・・。とほほ。
Amadou & Mariam,'Sou ni tile'がアマゾンから届く。
http://jp.youtube.com/watch?v=iju1_DhH2Qs

一曲目に収録されている「je pense a toi」。メロディーがどこか呪術的で忘れられない。でもアルバム、全体的にはちょっと単調かな。

こういう民族歌謡みたいなポピュラー音楽も私は好きである。だから懺悔ノートでこれまで書いてきたようなアイルランド歌謡もけっこう好きだ。でも研究でその音楽を語ることと「大好き」と居酒屋で語り合うのはまったく違う。そこには素朴な研究意欲だけではなく自らの語る場の「政治」に自覚的な批評精神が必要とされるのである。

先月だったかモウリさんの『ポピュラー音楽と資本主義』の書評会で私は「敢えて」民族歌謡を省略したことをやんわりと批判した。パンクの起源に「アイルランド」が係わっていることを主張さえした。バランスを取りたかったというのもあるが、それはアイルランド協会の一員である私、言いかえればアイルランド歌謡を取り巻く「政治」に片足を突っ込んでいる責任からそうせざるをえなかった面がある。ワールドミュージックを巡る政治と言ってもいい。今回のアイルランド協会におけるアイルランド歌謡を巡るパネルで先輩のSさんがイントロでポール・ギルロイからの引用をしていたのも象徴的である。モウリさんはそのギルロイのお弟子さんの一人だからである。

私の言動は単なるバランス感覚なのかもしれないが、それ以上にそれぞれの学問、学会の「政治」に敏感だからでもある。

学問が一生懸命に研究する人には公平である、というのは一面的なことであって、大方の昔かたぎの学者さんは職が安定すると批評精神を忘れ去っていく。キツイからである。自分の関心あることを思う存分研究したい、という気持ちは誰でも一緒だが、それが可能となった「政治」に批評的であることは学者の責任である。

さて12月に日本ポピュラー音楽学会で発表する準備を始めなければならない。すでに私は「パンク」に関して発表することになっていて、日本のテクノで発表する人の枠に入れられてしまった。このポピュラー音楽研究の枠の設定にも強烈な「政治」の匂いがする。「パンク」が特権的な記号として機能する枠であることが容易に想像できるからだ。じゃあ私はどうするのか?

答えは発表の最後でワールドミュージックを評価してみせる、これである。これは私が天性の天邪鬼だからそうする訳ではない。

それが私のギリギリの「批評」なのである。
ぜんぜん懺悔してないじゃん、って言われそう冷や汗

怒りの発露にこういったメディアを利用するのはよくないとは思う。

はっきりしておかないといけないのは「アイルランド歌謡」というものがポピュラー音楽研究としてアイルランドの大学レベルで可能になったのは、とくにSean O'Riadaを筆頭とした当時の学者兼ミュージシャンらがアイルランド国中の知られざるものも含めて体系化、楽譜化したことに直接な起源がある。それが大体70年代のこと。その頃のアイルランド(南の共和国のことね)の政治体制、また文化教育庁がこの調査、体系化の経済的な支援をしていた、と考えるのが自然である。経済的な支援はすなわちイデオロギー的な支援でもあることを見逃さないことが重要だ。当時のアイルランド共和国の反動的な政治・経済体制は疑う余地なく「カトリック・ナショナリスト」体制である。

したがってそもそも我々が「アイルランド歌謡」をリスナーとして聴く機会が増えたのも、学者としてそれを論じることが可能になったのもその文化ナショナリズムのおかげなのであり、その政治経済的、美学的なもろもろの総体を「政治」と私が呼んだものなのである。

要するに無意識に我々の欲望を無意識に操作するこの「政治」に安易に乗っかってはいけない、ということである。私がいらついたのはパネリストの皆さんが「無邪気に」知識を披瀝し、また語っていたからなのである。つまり「文化ナショナリズム」に端を発する「政治」圏域に包まれながら、そのことに無自覚だった。

無意識に、というのがポイントであって本人が善意でやっていたとしても(私は信じる気満々である)、この無意識の「政治」に無自覚だったとすれば、やはり咎なしではすまされない。倫理観に欠けると言わざるをえないのではないか。

さて司会と発表一人二役をこなしたS氏の発表(手短に)。

「歌のアイルランド化についてーーー'Shenandoah'を手がかりに」
発表はヴァン・モリソンの「シェナンドア」をCDで聴くところから始まった。最近私もよく聴く北アイルランド出身のシンガーである。この曲はチーフタンズのリーダーであるパディ・モローニの企画でもともとアメリカにあったシャンティー(水夫の歌)であった「シェナンドア」をヴァン・モリソンに委託して歌ってもらったもののようである。『ロング・ジャーニー・ホーム』というのがその企画アルバムだそうで、演奏にはチーフタンズのメンバーが加わっている。

さてS氏によると明らかにアイルランドを賛美するためのアルバムにこのおそらくアメリカ起源のシャンティーが選ばれているのは何故か、という問いが浮かぶ。ここまでのS氏の手順は(えらそうで申し訳ないが)間違ってなかったように思う。しかし疑問は呈するが、最後まで「アイルランド歌謡」を巡る「政治」、とくにその起源である文化ナショナリズムを断罪することはなかった。オープンエンディングである。しかも始末が悪いのは世界のポピュラー音楽の起源にアイリッシュ系アメリカ人をアフリカ系アメリカ人との競作であるかのように論じた批評家の文章を紹介しながらその浅ましい企てを断罪しなかったことである。

「文化ナショナリズム」を批判することは今回のテーマではなかった、と氏は打ち上げで語ってくれたが、そもそも今回のパネルが日本で、しかも学会という責任ある場所で可能になったのは「文化ナショナリズム」がそもそも起源にあって、学問レベルでもアイルランドの歌謡を論じられるような体制がアイルランドではもちろん、日本においても確立されつつあるからである。S氏がこの無意識の「政治」に無邪気に包まれている、言いかえれば加担してしまっている、と感じられたのは氏が議論をいい所まで行っておきながらオープン・エンディングにしてしまったからなのだ。

ヴァン・モリソンが素晴らしい歌手であることを私は否定していない。チーフタンズについてもそうである。しかしこの「政治」に自覚的にか、無自覚的にかは分からないが、これらのミュージシャンが係わってしまったことは批判されてしかるべきである、と私は考える。

そんなに批判したいんだったら自分で論文やら口頭発表とかでばんばんやればいいじゃない、と言われたが、日本アイルランド協会の主流派がこの「政治」に連座している(と私には見える)場所でどしどしやるのはどれだけ大変なことか、氏はぜんぜん分かっていない。私が去年「パンク」という最もエスタブリッシュメントから遠い(そうじゃない学会もあるが)題材に選んだのはこの「政治」に敏感だったからだし、そういうわけでささやかな抵抗は試みているのである。単にスティッフ・リトル・フィンガーズが好きだから題材にしたのではない。この巨大な「政治」に飲み込まれないため、抵抗するための戦略だった(もちろんこの戦略が間違っている可能性は否定しない)。

それを氏は完全に誤解した、今も誤解している。

世界のポピュラー音楽によるアイルランド化は「白人中心主義」という言説を広めかねない。だからこそやはり氏は発表で決然とこの流れを断罪すべきだった。

批判するのに名前を名乗らないのは卑怯だ、というのであればいつでも名乗ります。
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