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がどうやら社会科学系に到来しているように思う。

80年代後半から90年代前半までが英文学における理論バブル時代。ソシュール、バルト、バフチン、クリステヴァ、ラカン、デリダ、ドゥルーズ、特にアメリカの文学批評理論家はこれらの思想家(理論家と言うよりも)のテクスト、言語、記号を中心とした部分をいわば「マニュアル化」した。このマニュアル化された理論を基に論文が大量生産されたのである。

もともと文学における理論の展開は80年代にイギリスのケンブリッジ大学の英文科で起こった「脱構築派」放逐騒動に顕著だが、大学と英文科の体制派に対する権力闘争であった、と思う。社会全体にインパクトを残した運動だったかというとそうではない。自らも大学の教師であるデビッド・ロッジの小説「ナイス・ワーク」(筒井康隆の「文学部唯野教授」に相当)に描かれていたように、多くの英文科の理論家は社会の現実に疎い、頭でっかちの人々であった。

「ナイスワーク」(のちにBBCの人気ドラマになった)ではヴィクトリア朝小説を専門とした自称「フェミニスト・マルクス主義者・脱構築派」の女性がサッチャーが提案した政策によりロンドンの小規模な町工場に3週間インターンに行く、といったものであった。中年の中間管理職の男に記号論やフェミニズムを教える件などなかなか笑わしてくれる(工場には女性のヌードポスターがたくさん貼られている)のだが、最初互いに嫌悪感を抱いていた二人が最終的には好感を持ち合う、そういう話だった。

さてポスト・コロニアル・スタディーズが出てきたのがだいたい90年代の半ばから後半、イーグルトンら白人の文学批評理論家が理論から撤退する時期と重なっている。サイードのような人種的なマイノリティーが理論に進出してきたからである。

結局現代思想を取り込んだ文学批評理論の戦いは「英文科」の衰退を先伸ばしただけの効果しかなかったことがはっきりする。それが英文科における理論バブルだ。人種マイノリティーの理論化が根本的に「文学」を批判し始めるや、圧倒的に文学研究が西欧中心主義的で「古臭く」見え始めたのである。

一方社会科学のほうでもラクラウのような政治学所属の人が文学研究者が作成した現代思想マニュアルを自らの政治・社会理論に取り込んでいく。それが90年代後半。ここでも非白人の理論家が台頭してくる。まあラクラウはアルゼンチン出身だから英米の白人ではないからこのひとも「サバルタン」と言えなくもない。この流れでインド系のアパデュライなどを理解できるのではないか、と思う。

でも違うのはこの現代思想を取り込んだ理論のディシプリン横断の現象は、その過程でそれが以前適用されていた文学テクストを用無しにしてしまった感がある、ということである。文学研究者にとってはエリオットの詩テクストやジョイスの小説テクストが「フィールド」であったし、したがってフィールドワークとはくまなく言語テクストを吟味することであった。しかし現在テクストは(コンテクストを含めて)社会全体に広げられた。社会というテクストを読む技術に文学テクストを読む技術が役に立っているかどうか、は分からない。私的には役に立つと信じているが・・・。

Nyersの国際関係論が現代思想のマニュアルを利用できているところからも、アメリカの政治学部などでもこの手の理論系論文が大量生産されていることが容易に想像できる。ただし英米の政治理論における冷戦以来の保守的なリベラリズムに反ヒューマニズムの傾向が強い現代思想がどこまで食い込めるのか、はまだ分からない。それがアフリカをフィールドにする、となるとたぶんまだまだ時間がかかると思う。メディアのインフラ(テレビ、携帯、インターネット、など)がアフリカには部分的にしか普及してないこと、も障害になるだろう。それでもカルチュラル・スタディーズが徐々に、時間はかかるだろうが、アフリカにも進出していくことは想像できる。

そのうちウガンダ人の文化理論家などが現れるかもしれない。いつになるか知らんが・・・。
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やや前回書き足りなかったことから。

「女性」の本質化(これは生物主義に繋がる)とともに少し気になったのは「アイルランド」の本質化という側面である。「アイルランド」ってどこですか、っていう本質的に政治的な問題があり、この点に関しては「おやすみベイビー」の監督マーゴ・ハーキンも、それを評価するカリングフォードも中途半端な感じがする。

まずもってこの映画は北アイルランドのデリーが舞台である。したがってプロテスタントも(また過激なロイヤリストも)たくさん住んでいるわけである。アイルランド/カトリックを強調するマーゴやカリングフォードもそのことを知らないわけはもちろんない。映画における聖母マリアの圧倒的な現前はストーリーががカトリック住民視線で描かれていることを示す。ここはマーゴに確認する必要がある点だが、デリーの、いや北アイルランドのプロテスタント住民がこの映画をどう受け取ったのか、また中絶の問題にどう彼らが反応しているのか、が分かりづらい。どうやらカリングフォードに拠れば1967年に成立した「イギリス中絶条例」(中絶を法的に認める条例)はイギリス連合国の一部であるはずの北アイルランドには適用されてこなかったようである。だとすればプロテスタントの女性もまたその身体(子宮)が管理されていることになるだろう。つまりイギリスの政府によって直接または間接にプロテスタントの女性も抑圧されていることになる。

つまり北アイルランドの女性が置かれている状況はもっと複雑だと考えられるのだ。

「分かりやすさ」を優先すれば複雑さは避けなければならない。それが「穏健さ」の陥穽なのかもしれない。

さて本題。
「シェルショック・ロック」(1979)
今回の映画祭の最大の目玉だった、と私は勝手に思っているが、大画面で観たこのドキュメンタリー映画の出来はお世辞抜きで素晴らしかった。北アイルランド紛争中の「若者」に焦点を当てている点では「おやすみベイビー」と同様である。「おやすみ」の少女、「シェルショック」の男の子。「おやすみ」の場合母性が中心テーマであり、「シェルショック」はエンターテイメントにおける「男らしさ」がテーマだとも言える(もちろんライブハウスには少女もやってくるけれども)。

あまり批評的ではないが、パンクの少年・少女たちが単純にカワイイのだ。アンダートーンズのフィエガル・シャーキーはあまりパンクのいかついイメージというよりはポップアイドルに近い。パワーポップといったほうが当たっているかもしれない。アメリカ西海岸のラモーンズの陽気さが不思議なことに紛争の影が濃い北アイルランドをパッと明るくする。一方の雄スティッフ・リトル・フィンガーズはクラッシュ寄りというか、政治的な臭いが強いのだが、そのエネルギーこそは「シェルショック」(砲弾による神経症)から若者を解放するロック音楽、だと思わせる。

ルーディー、プロテックス、イディオッツ、などあまり日本では馴染みのないパンクバンドもかなりかっこよかった。

それから忘れてはいけないのが北アイルランドパンクの仕掛け人テリー・フーリーである。ベルファーストにGood Vibrationsなるレコード屋を構え、自ら立ち上げたインディーズレーベルから数々の地元のパンクバンドを世に送り出した。とにかく映画の中のフーリーは本当に楽しそうで、一見アブナイ人である。ヒッピー風のいいおっさんなのだが、EMIなどが牛耳る巨大音楽産業にインディーズ・レーベルでもって対抗できることを体現している(それだけでも凄いことだ!)だけではなく、じつに素朴なのだ。音楽が好きで仕方ない、それがよく画面から伝わってくる。

とにかくグレートだった!

N.アイルランド・フィルム・フェスティバルが始まった。
http://www.niff.jp/

昨日(210日)3本の映画を観てきました。
「おやすみベイビー」(Hush-a-bye Baby)(1990)
「シェルショック・ロック」(
Shellshock Rock)(1979)
「弾道の詩行」(
Lines of Fire)(2000)

「おやすみベイビー」(ネタばれ注意

もともとはテレビ放送(イギリスのチャンネル4)用に製作されたものだが、評判を呼び世界でも劇場で公開していたみたいだ。もちろんそれでも日本では今まで未公開である。

不満ではないが「おやすみベイビー」の「ベイビー」は「あかちゃん」でもよかった気がする。だってなんだか「ベイビー」って矢沢の永ちゃんみたいだし・・・。

昨日は映画上映とともにこの映画を監督したマーゴ・ハーキンさんの「トーク」があり、幸運なことに晩飯をスタッフとともにご一緒させていただいた。

さてこの映画に関しては私は英文学者として、ポピュラー音楽研究者としても数年前から興味があった。詩人シェイマス・ヒーニーの詩が引用されていること、歌手シニード・オコナーが出演していること、これらが私の興味を引いていたものである。この映画を知ったのはアメリカ人のアイルランド文化研究者カリングフォード(Elizabeth Butler Cullingford)の論文「シェイマスとシニード、「リンボー」から「おやすみベイビー」を経由してサタデー・ナイト・ライブへ」('Seamus and Sinead: From 'Limbo' to Saturday Night Live by Way of Hush-a-Bye Baby')である。

監督本人(マーゴと呼ばせてもらいます)が語っていたようにテーマがテーマだけにフェミニスト的な視点で作られてはいるのだが、フェミニストの友人からは「甘い」と言われたようだ。カリングフォードもまた自らを「穏健なフェミニスト」であることを告白しているからこの二人には通じるものがある。ラディカルにならず多数の視聴者、読者に向けて撮っているし、書いている。一方でシニードは相当ラディカルなパフォーマーなのであるが、マーゴ、カリングフォードの二人ともお母さんのような優しい眼差しでシニードを見守っている感じがある。マーゴに拠ればシニードには楽曲を提供して欲しいと申し出ただけだったらしいが、脚本を読んだシニード本人から強く出演したい、と言ってきたそうだ。

ちょっと15歳くらいの役(「シニード」そのまんま)は無理だろ、と観ながら思ったが、撮影当時彼女は24歳くらいではなかろうか。色っぽすぎです、正直。

さてそういった細かいリアリズムはこの映画に関してはどうでもいいことではある。カリングフォードがこの映画とシニードを評価するのは「アイルランド人女性」という戦略的な視点ゆえであった。

Nevertheless, as long as females have babies and males do not, an Irish "woman" is someone whose womb (if she is fertile and Catholic) is susceptible to male clerical control. If any country requires a dose of strategic essenntialism (a tactic Butler distrusts), it is surely Ireland. (p. 245)

「それにもかかわらず女性があかちゃんを産み、男性が産まない限りにおいて、アイルランド人の「女」とは自らの子宮が、(もし彼女が妊娠ができ、カトリックであればだが)、男性の聖職者によって管理される可能性が大きい人のことである。もし一服の戦略的本質主義(バトラーは信用していない作戦ではあるが)が必要とされる国があるとするならばそれは確かにアイルランドである。」

バトラーとは『ジェンダー・トラブル』などの著書で有名なアメリカのフェミニスト理論家ジュディス・バトラーのことだが、バトラーが「女」という言葉そのものが持つ生物学的な決定論をも厳しく退けるのに対してカリングフォード(やマーゴ)はまさに「穏健な」フェミニストと言ってよい。戦略的に「女性」を固定化(本質化)して描く必要があるのがアイルランドなのだと言う。アメリカではダメだとしてもアイルランドでは社会的な正義が本質主義の陥穽よりも優先する、と。したがって穏健なのである。

「子宮が男性聖職者によって管理される」というのは特に80年代までのとくにカトリック教会における妊娠中絶のタブー視、またアイルランド共和国政府における中絶禁止の法律化、を指す。その結果原因が自らの不注意である場合も含めて少女が妊娠した時に人知れず子供を生み、赤ちゃんを殺してしまった場合もあれば、自らも衰弱死したり自殺する事件が頻発した。それが1983年と1984年の頃に社会問題化したわけだ。1982年の国民投票で中絶を非合法化することを選択した大人のカトリック住民にも責任があるが、カトリックの枢機卿や司祭の法外な権力こそがこの問題の原点なのではないか、と言える。シニードはのちにカトリック聖職者の「子供虐待」を弾劾することになるのだが、政教分離が事実上守られない政府に対する不信感をシニードのようなロック・ミュージシャンが持っていたことは注記に値する。

私個人としては映画を観て「これはこれでいいのではないか」と思う。アイルランドにラディカルなものを要求しなくても、すでに北アイルランド紛争自体がラディカルだったわけだから、もういいでしょう、となる。おそらくアイルランドの魅力は他の欧米諸国にはみられなくなった穏健さ、温和さ、だろうからである。

でもシニードのラディカルさは別格というか、フェミニズムだけでは捕らえきれない質のものである。スター表現者であり、パンクにつながるミュージシャンであることをちゃんと考える必要がある。文化産業とシニード個人の思想とは切り離して考えられない。

さて他の2本の映画については次回に!

三池炭鉱跡には行ってみたい。

松本健一著『谷川雁・革命伝説』(河出書房新社)を読了。いい本であった。

革命家にして詩人であった戦後唯一の存在と言える谷川雁は私と同郷熊本は水俣の出身であった。だからずっと気になってはいたのである。詩作品もアンソロジーなので数篇しか読んだことないけどね。

おそらく政治思想家としては古いタイプのアナルコ・サンジカリストであり、今では色あせてしまった毛沢東主義者であろう。故にあまり過大評価できない。でも詩人としての言葉に「革命」の力が漲っていた点では戦後日本では稀有な人であったと思う。

だから詩を書くことと革命を組織(オルグ)することにまったく矛盾がなかった。三井三池炭鉱争議での敗北以来革命の拠点にするはずだった筑豊(大牟田から荒尾にかけとの地方)を捨て、詩を捨てて、上京した谷川は「ラボ教育センター」なる珍妙な団体の重役となった。この本を読むと言葉をとおして死ぬまで「革命」を諦めてなかった谷川雁に驚愕というか、畏怖の念を抱いた。「ラボ」の子供たちに独特な言語教育を施すことによって「革命」をやはり囁いていたのだ。

ウルトラナショナリズムを革命のエネルギーに転化するという夢のような政治思想を竹内好などから学んでいた、とは松本の言だが、やっぱり危険な香りがぷんぷんする。でも詩人としては断筆の決断をも含めてやはり一流である。

「この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性」を信じていた頃の谷川雁の言葉、それに圧倒され、「革命」へと扇動された若者が大勢いたと言う。さもありなんというか、ね。

「毛沢東」

「いなずまが愛している丘/ 夜明けのかめに

あおじろい水をくむ/ そのかおは岩石のようだ

かれの背になだれているもの/ 死刑場の雪の美しさ

きょうという日をみたし/ 溶岩のなやみをみたし

あすはまだ深みで鳴っているが/ 同士毛のみみはじっと垂れている

ひとつのこだまが投身する/ 村のかなしい人達のさけびが

そして老いぼれた木と縄が/ かすかなあらしを汲みあげるとき

ひとすじの苦しい光のように/ 同士毛は立っている」

いい詩だな、谷川雁の肉声に扇動されてみたかったよ。そうすれば革命家になれたかもしれん。ロマン派だけどね。

松本は高度成長期に入って新しい時代に入ったのが東京オリンピックの1964年だと言う。この年以来政治を語るボキャブラリーが一新されることになり、谷川は沈黙を保つことで伝説としてしか存在しなくなったそうだ。しかし学生運動の時代に再び谷川の伝説となった言葉が力を持ったことからすると、あながち大嶽秀夫などがポストモダン思想家として谷川を再評価しているのも間違いではないのかもしれない。

まあでも近代化のモニュメントとしての三池炭鉱跡には行っておきたい。廃墟としての魅力も抜群だし・・・。

アニメが共通の話題になりつつある、O大学の講師控え室。私を含めた喫煙者約3名がタバコが吸える控え室を独占してたりするのだが、皆さんのアニメ話に影響されてしまった。それぞれ英文学、米文学、仏文学(レヴィナス)と専門が違うのでどうしても話題は別のことになる。いやいやみんなアニメ観てんのね、「ニコニコ動画」とかで。

ラキスタ、日暮らし、病んデレのスクールデイズ、しゃな、こんな言葉が当たり前のように飛び交っている。

で、「ぼくらの」にはまっちゃったわけですよ、はは。

同じ原作者で「ぼくらの」以前にアニメ化された「なるたる」は酷かった。これを子供アニメチャンネル「キッズ・ステーション」で流していた、というんだから恐れ入る。気持ち悪い、残酷、暗い、鬱、間違いなくこれ観た子供はトラウマになりそう。

なにせ主要登場人物の子供たちに「自殺するか、セカイを破壊する(人々を抹殺する)」かの選択を迫る、体のものだから。

自分かセカイを選べ、とこれがいわゆる「セカイ系」の極端かつ馬鹿げた薄っぺらい思想。そこに性的な欲望が絡んでくるとどうしようもなく気持ち悪いものになる。

でも「ぼくらの」は傑作だと言っていい、と思う。相変わらず不条理な設定であり、エピソードによっては歪んだ性的な欲望が主題となっていたりするが、主人公の子供たちの人間ドラマがけっこう濃密に描かれている。

けっこう泣きそうになるよ。

「あの時最高のリアルが向こうから会いに来たのは、
僕らの存在はこんなにも単純だと笑いに来たんだ」

なんて歌詞だよ、これ(笑)。主題歌「アンインストール」の出だしの歌詞だが、基本このアニメはやはり「リアル」を巡っているようである。この「リアル」は「向こう」(何処?)からやってきて我々を「笑い」にくるほど悪意に満ちたもののようだ。

さてストーリーからするとこの「リアル」は「死」以外ではありえない。死すべき存在である、という不条理なプログラムを「アンインストール」することを人間はできない、っていう。

そう考えるとこの「ぼくらの」って普遍的なテーマに沿って作られてる気がするね。気味の悪いキャラクター(マスコットのようなフェティッシュ)が出てくるけどね。
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