忍者ブログ
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
フリーエリア
最新コメント
[08/01 くっさん]
[07/29 kuriyan]
[06/10 くっさん]
[06/10 くっさん]
[06/10 山田]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
Kussan
性別:
男性
自己紹介:
研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
バーコード
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「哀愁のマンデイ」のボブ・ゲルドフではなく、ホフ・ディラン、じゃなくてボブ・ディラン。

前回ニューポート・フェスティバルでのディランのステージ後にマネージャーと黒人音楽収集家でフェスティバルの実行委員の一人であったアラン・ローマックスが取っ組み合いをした、と書いたが前日の土曜日に行われたブルースのワークショップでのことらしい。というのもディランのマネージャーであるアルバート・グロスマンが日曜日に一夜漬けのバックバンドを務めたポール・バターフィールド・ブルース・バンドのマネージャーでもあったことが発端なのだそうだ。

ローマックスは「黒人のブルースを演奏する白人」が大嫌いだったそうでバターフィールド・バンドの演奏後、嫌な応対をしたローマックスに喧嘩を売った、というのが真相だ。

筆者マーシャルの意見によればこの事件が次の日に出演が予定されていたボブ・ディランの気持ちをエレキギターでオーソドックスなロックバンド形式での出演に踏み切らせたのではないか、と述べている。

どちらにしても50年代に再発したフォーク運動との断絶をディランが身をもって示したのは確かだろうと思われる。反戦、労働者階級の味方を掲げていた第二次フォーク・リバイバルから離脱したわけである。

さてもう一人の大物マッコールに関して言えばこの人がオリジナルらしい「ダーティー・オールド・タウン」はやっぱり名曲だけど、スコットランド民謡への介入、フォーク音楽運動を社会主義的なポリティックスに結びつけた張本人である。さらにはフォーク音楽(バラッドのようなトラッドを含めて)を教条的なものにしたことだけは否めないようだ。

ちょっと切ないのはポーグスの「ニューヨークのファアリーテール」でレコーディング、PVともにマッガワンと共演したカースティー・マッコールがこのイワン・マッコールの実の娘であり、さらには2000年にメキシコで交通事故によってこの世を去っていることである。

なんと因果な話であることか!
PR
しょぼいボブ・サップではなくボブ・ディランでしょう。

http://www.youtube.com/videos?ytsession=wdRQJFy_0FqKOwAPxkWSAyHgGBjMEvXf15XTk3cnhnUUv3aCFO0ODD_l4npDQsVyOmroOtd0xgtrzduYhOjKn_yDjx0cmZ98JmgwCTrMH-R352fP3jTSc9fN5x8snjLHR3_52AY1dZVOkcjO2uZvml0IPcd8KnUsv7xoim1QRlE83VXek0fM8sfStSDZdXqSi0uvSrtELLy8r3PhzrmtW83199khSNGjk_RYq3qUUnYNrKP7h8cPigHhTHJlk2HIJdSw9wf_qtdH7rbiO-Uqt_G8Vynkj2_5dsAWLIpORH4Gy6lSlqf_VaE9Eezq059YFVA04JjGg5vyHXc1YedLe-VS86WFeWCQ-0jMXBMtwVfXXSzER6oaSlFZqLmiW7-F

Bob Dylan: Newport Folk Festival, July 25, 1965
(Lee Marshall)

ボブ・ディランを一生懸命聴いた憶えはないが、最近ではよく聴く。'Highway 61 Revisited'とか'Blonde on Blonde'ね。この人と音楽のカリスマ性ってもしかしたらビートルズを凌駕するんじゃないかしらん?

さてMarshallの論文。

多くのページが「フォークリバイバル」とのディランの微妙な関係に割かれている。面白いことに第一次リバイバルも第二次リバイバルもイギリスで起こっていることだ。どういうことだろう?私は勝手にアメリカのボブ・シーガーとかウッディー・ガスリーを思い起こしてしまうのだが・・・。

それはそうとニューポート・フォーク・フェスティバルでのディランの演奏はたしかにエレキギターを持って登場したことで有名だし、以来フォークの世界では裏切り者呼ばわりされたこともよく知られている。

筆者は必ずしもフォーク・リバイバルのイデオローグたち(イワン・マッコールやアラン・ローマックス)を表立って批判しているわけではないが、黒人音楽にも造詣が深い音源収集家にして批評家ローマックスに関してはこのフェスティバルでの演奏の後、ディランのマネージャーがローマックスに喧嘩を売り、泥まみれになった、とある。

フォーク・リバイバルのイデオローグたちへの批判という点では私も共感する。初期のリバイバルは基本的に近代的な国民とは区別される「民衆」(folk)をフェティッシュ化することで、明らかに反近代的なロマン派であり、「過去」を捏造したことも疑いえない。それも近代のテクノロジーである録音機材をフルに利用して田舎を飛び回って音楽を収集したくせに、である。ほっとけば消えていく音楽や歌を保存したいという気持ちは分かるし、大事だとも思う。が、収集したものをカテゴライズし、それを世の中に問うときいろいろな問題が起きる。つまり「生きた音楽」ではなく物神化された「過去」にしてしまうのである。

続く。
 

カブト虫採集を趣味にしている人ではなく、もちろんビートルズの熱狂的なファンのこと。


'Ladies and gentlemen...'
The Beatles: The Ed Sallivan Show, CBS TV, February 9, 1964
(Laurel Sercombe)

マネージャーのブライアン・エプスタインによってもともと革ジャンにリーゼント姿でステージに立っていた「荒々しい」ビートルズが揃いのスーツにマッシュルームカットの「可愛い、優等生の」ビートルズに変身させられたことは有名だが、この学者Sercombeによると、

その音楽性よりも「ビートルマニア」と呼ばれた熱狂的な10代の女の子たちこそがビートルズがポピュラー音楽史に果たした最大の貢献だという。何故なら彼女たちこそ70年代に入ってから巻き起こった女性解放運動の「先駆け」または「兆候」であったからだ、そうである。

実際キャーキャーいう女性の声は初期のビートルズの映像、ドキュメンタリー映画を観れば際立っている。私自身中学時代に近くの映画館に『ビートルズがやってきた、ヤーヤーヤー』とか『ヘルプ』など三本立てで観たとき感じた感想もそうであった。そういえば『アニメ・ビートルズ』なんてのもテレビで夕方放送していて、食い入るように観ていた覚えがある。

ビートルズの面々がスタジオから出てくると夥しい数の女性ファンたちが殺到してきて、メンバーたちを追いかける、というオープニングだった。

さて「キャーキャー」言われたポップスター(またはロックンロールスター)は50年代のエルヴィス・プレスリーがいたわけだが、プレスリーの場合は「真面目な女の子は悪い男の子が好き」という構図であり、男性ファンはマッチョで、女性ファンはまさに中産階級のお嬢さんたちであった。ところが初期のビートルズファンはほとんどが若い女性であり、マッチョではなく「可愛い」、見ようによっては女性的な魅力を振りまくビートルズであった、と。

この論理にはロックのイデオロギー(暴力性、無法者、反抗者というイメージ)とは違ったポップの戦略が浮かび上がってくるように思うが、ポップというものがロックが持つ「女性蔑視」を実際に取り除いていったのか、またどのように取り除いていったのかはマドンナやらブリットニー・スピアーズなどの女性ポップスターのみならず、「両性具有」(アンドロギュノス)というイメージを打ち出したグラムロックなどにも係ってくるのではないだろうか。

それにしても結局この論文集、音楽論というよりもポピュラー音楽のメディア表象論といった感じで、やっぱり「ロックはライブでしょ」という意見(固定観念?)を真っ向から否定してくる論調のものが多い。

メディアとテクノロジー、これらが大事なのは分かってるけどね・・・。

ポピュラー音楽史というよりもアメリカのポピュラー文化史にとって1964年のエド・サリヴァン・ショーへのビートルズ出演が重要というのはその通りだろうけど、「女性解放運動」とビートルマニアの繋がりの説明は中途半端だな。

それはそうと『アニメ・ビートルズ』が久々に観たくなってきたよ。
 
書きづらいことではあるが、

私には「アート」の存在意義がよく分からない。

よく飲み屋でいわゆる「アーティスト」って何者だろう、という話になる。結論的には芸術家と「そうでない人」の「中間」ということになる。

では「そうでない人」って何?

単なる読者・視聴者を除外するとすれば芸術家ほどの独創性(作家性)はないが素人よりは才能がある人、ということになろう。

さてさてその「才能」とはどんなもの?

剽窃する才能、オリジナルをパロディーする才能、コラージュする才能、そんな感じだろう。

そもそもポピュラー文化作家(作曲家、作詞家、小説家)が「オリジナル」を主張できるとは到底思えないが、そうはいってもその人たちにも生活がある。つまり著作権の問題があるわけだ。

ちょっと脱線したが、現代美術で言う「アート」が上で述べたように「芸術」未満、「そうでない」以上であるとしても、やはり現代美術で区分される以上、それらの中間と言うよりも「芸術」に限りなく近い、ということになろう。

「前衛」は芸術においても政治においてもおおかた20世紀20年代くらいまでのモダニストの領分であった。ドイツの文学で言えばブレヒトが典型的だが、前衛芸術家でなおかつ前衛政治思想家(マルクス主義者)といいうケースが多いのである。

はっきりしておきたいのは前衛芸術家にしろ前衛政治思想家にしろ、ほとんどはブルジョア階級出身だった、ということだろう。

さて私がよく分からないのは「アート」が芸術ではないと主張されるとき、それではポピュラー文化なのかという問いにどう答えるのか、という点である。

私の見解が正しければ「アート」は大衆消費社会が到来したころに形成された新中産階層の芸術運動である。技術的にもモダニスト芸術家の模倣に思えて仕方がないときがある、正直な話。

なんというか同じ中間層でもテレビドラマにうつつを抜かす人々とは違う「エリート」の臭いがやっぱりしてしまうのだ。

その「アート」の人たちが政治を語るとき、やっぱり在りし日のモダニスト芸術家を思い出す。基本姿勢があまりかわらないからだ。

私が分からないのはそのグラグラ感、芸術でもポピュラー文化でもないことからくるグラグラ感とどう向き合っているのか、またどう向き合っていいのか、である。

すみません、ちょっと真面目に書いちゃいました。

久しぶりのうアップ。誰も読んでくれないだろうなあ。
『麦の穂を揺らす風』はたしかイーモン・デヴァレラとマイケル・コリンズを念頭にして内戦で袂を分かつ兄弟を造形していたと思う。

独立戦争の後でイギリスーアイルランド条約(北部六州を残して「アイルランド自由国」として自治独立を許すもの)推進派と反対派でシンフェイン党とその軍事組織IRAが分裂して戦い合うという・・・。

推進派のリーダーがマイケル・コリンズで反対派がデヴァレラだ。デヴァレラはイギリス皇室への忠誠の拒否とイギリス連邦(コモンウェルス)からの即時脱退を主張したわけね。ちなみにコリンズは内戦中に戦死。

マイケル・コリンズはちょっと前映画化されたくらいだから人気があるみたいだが、デヴァレラのほうは微妙だな。共和国として南が完全独立したあと長い間大統領に居座ったわけだけど、彼の妥協無き共和主義(「北」はアイルランドの領土である、という主張)と国内での反動的とも言うべき保守政治でかなり批判されている。とくにフェミニストに評判がすこぶる悪い。

まあそれはそうとデヴァレラが出入りしていたゲーリック・リーグ(アイルランド語を復活させることを目的とした文化団体)にはロンドン支部があって、そこで生まれたのが「ケーリー・バンド」という音楽形体なわけね。

20世紀初頭の話。まあそれはゲーリック・リーグの会合を盛り上げるためにかなりおざなりに作ったそうで。「ケーリー」はまあスコットランドやアイルランドなどの田舎に散見されたダンス音楽なんだけど、50年代以降一気に廃れてしまったそう。デヴァレラ政権下のアイルランド共和国では「ケーリーバンド」は不純なもの(アイルランド固有の音楽ではない)とされ、代わりにアイリッシュ・ハープやボドランのような打楽器が「アイリッシュ・ヘリテージ」という文化政策の中で称揚されたんだと思う。アイルランド語で歌う伝統歌謡とか。

私的に言ってしまえば民謡がアイルランドでは「高級な」音楽になっていく訳ね。他のヨーロッパ国におけるクラシックのような地位にね。このポピュラーなのに「高級」という困った事態が起こるのも独立以前から中産階級だったカトリックが権力中枢を握ったからだと思う。それまでは公職から追放されていたからね。ルサンチマンというか・・・。

当然メディアテクノロジーの発展も見逃せない。つまり録音技術の発展とレコード、レコードプレイヤーの登場ね。アメリカにおけるアラン・ローマックスのようなコレクターがわんさかアイルランドに来て録音採集して周った。その中心人物がショーン・オレアダということになる。クラシックも勉強していた人らしいが、アイルランド歌謡・民謡を収集する傍らで音楽家として、また音楽学者として一気に有名になる。やっぱこれ50年代かな。

そのオレアダがやっていた楽団からチーフタンズのようなのちに「アイルランドの宝」と呼ばれるようになるバンドのメンバーも出ているみたいだ。

整理すると、
デヴァレラの反動保守政治。
カトリックの旧中産階級の台頭(レコード再生機は当時高かっただろうからね。)
「アイリッシュ・ヘリテージ」という文化政策。

このような条件があってアイルランドでは民謡が高級芸術になっていった、と。いちおうそう整理しておく。

90年代以降は別としてアイルランドって西ヨーロッパでも貧しい国だったからね。大学にも行けないような労働者階級の人たちや新興中産階級の若者たちにとってはこんな文化政策どうでもよかったはず。

そこでロック音楽が盛んになった。

でも複雑なのは労働者階級や農村にも伝統音楽は当然ある。結局「純粋な」伝統音楽なんて妄想だからな。

そういうわけでアイルランド出身のU2がロックを世界的なポピュラー音楽にした時点でカウンターカルチャーとしてのロックの時代に終わりが来る。さらには89年ごろからの「ワールド・ミュージック」ブーム。

シニード・オコナーもホットハウス・フラワーズのオマオンライもロック以外のジャンルとして民謡に接近(復帰?)を試みた。

このオマオンライ、びっくりすることにシューゲーザーの雄マイ・ブラッディー・ヴァレンタインのケヴィン・シールズとダブリンでパンクバンドをやっていたそうだ。

奥が深いよ。

Don't go / Hothouse Flowers

Sadhbh Ni Bhruinneallaigh / Liam O Maonlai

まったく別人に見えるかもしれんが同人物である。

ちなみに共和国の文化政策の中で「不純」というレッテルを受けたケーリーバンドにパンクロックのエッセンスを詰め込んだザ・ポーグスを私が評価する理由は以上のノートで推察していただけると思う。
忍者ブログ [PR]