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研究職です。大学にて英語講師、家庭教師、翻訳などをやってます。
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カルチャー (bedroom culture)。

あんまり聞き覚えのない言葉だったけど、とくに少女がどのようにポップスターやその音楽を消費しているか、を指す言葉のようである。つまり自分の部屋の壁一面をお気に入りのポップアイドルのポスターで飾ったり、彼・彼女の音楽を聴いたりする空間に固有な文化ということだ。

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It is also apparent that young girls use popular music and its associated images to negotiate their gendered identities within micro-worlds, and that rather than being cultural dupes, music is used to explore and challenge where they 'fit' in terms of other social forces.  ・・・ Rather than being simply a fun-making activity, pop music, dancing and the exploration of images 'is much more about an expresion of cultural identity which, in its very embodiment, represents an attempt to make sense of "the real me" of the emerging self'.     (Baker in Whiteley, 25)

若い女の子たちが自らのジェンダー化されたアイデンティティーを小世界の中で定めるためにポピュラー音楽とそれに関連したイメージを利用していることも明らかであり、文化産業の手先であるよりはむしろ音楽は、彼女たちが他の社会的集団に対してどういう位置を占めたらよいのかを探索し、吟味するために使われる。・・・単に楽しむ活動であるよりはむしろポップミュージック、ダンス、それにイメージの探求は(娯楽より)はるかに文化的なアイデンティティーの表現に係わっており、その表現は、まさにその具体化において、生まれつつある自我の「本当の私」を理解する試みを意味している。

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やたら難しく書いてあるけど、要は少女が家族ともクラスメートとも違う一つの個人として自分(自我)を発見する時、重要な働きをするのがポップスターであり、その音楽であり、メディアに登場するイメージなのだということ。この自己発見の過程が圧倒的に起こる場所が自分の部屋、ベッドルームだということらしい。社会とも隔絶され、家族とも比較的に隔絶された自分の部屋でさまざまなファンタジー(妄想ともいう)がポップスターをきっかけとして跳梁する。

まあ男の子にも適用できるとは思うけど、男の子は友人と遊ぶ時間が多いからあまりベッドルームは重要な場所ではないのかもしれない。

でもどうかな?私の場合は部屋にはロックスターのピンナップや音楽雑誌からの写真の切り抜きが飾られていたことを告白しておく。ジミー・ページやThe Clashのジョー・ストラマーとかね。

ロックイデオロギーのど真ん中で私は自らの「自我」を形成したわけであろうか?

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最近復活しているSPEEDは何歳のデビューだったかな?13歳とか14歳でしょ、きっと。30代のオヤジにもけっこうファンを自称する人たちいたけど、基本熱狂的なファンはやはり子供たちだったわけでしょ。5歳くらいから15歳くらいか?

何が言いたいかというと、子供、とくに少女というのはポピュラー音楽に限った話ではないけれども、とくに音楽業界では「売り物」になる、つまりパフォーマーの商品価値が高いのと、CDやコンサートに行くファンという消費者層としてばかにならない、ということだろう。まあ、親からのお小遣いで写真集買ったりするんだけど、十分すぎる商売になる。

それは何故か、というのが問題なんだけど、子供と性現象(セクシャリティー)との特殊な関係にある、というのが本当なんだろう。

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Not least, they do not know the difference between good and evil, only between nice and nasty. S/he is good if s/he does not do anything bad. The ideal of children thus focuses on their innocence, their playfullness, their direct access to the world of  make-believe which, in turn, conncets them to the black and white ethical world of fable and fairytale. It is, however, this conceptualisation of innocence that underpins the contemporary paradox of both containing child sexuality and accepting its exploitation through, for example, the media.    (Sheila Whiteley, Too Much Too Young, 23)

とりわけ彼らは善と悪の違いを知らず、ただいい感じというのと気分が悪いの違いしか知らない。彼女/彼は何も悪いことしないからよい子だ。このように子供という理想は彼らの無垢さや無邪気さ、彼らが空想の世界に直接接近できることに焦点を当てる。その空想の世界が今度は彼らを作り話とお伽話の黒白がはっきりした倫理世界に結びつけるのである。しかし子供の性現象を封じ込めながら、例えばメディアによってそれが搾取されるという現代のパラドックスを支えているのはまさにこの無垢の概念化なのである。
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子供は無垢であるが、大人とは違ってまだ十分には「人間」ではないのであり、性的にはサド/マゾヒズムを含む大人の規範を逸脱した存在として理解される。無垢と性的な逸脱、この二つが子供のポップスターの隠れた魅力であり、音楽消費市場で価値がある、つまり売れるのである。

なんでこんなこと考えてるかというと、シネイド・オコナーのことを考えているからだが、シネイドの場合は19歳でデビューし、しかもシングルが売れ出したころには子供を身ごもっている未婚の母親だったからである。歌詞も性的に挑発的であった。

やはり彼女が売れた重要な条件として子供の、いや思春期の少女の性現象(セクシャリティー)へのファンと音楽業界の関心があったことは否定できないと思う。

別に音楽文化に限った話ではないけど、ライブハウスを舞台に「通過儀礼」が広く一般化したことは驚くには至らない。

通過儀礼の宗教的な起源については誰でも知ってるし、ライブハウスで、いやもっと大きな武道館などでジャニーズのグループに熱狂的な声援を送っている若者たちが「信者」扱いされていることもよく知られている。尾崎豊とそのファンとの関係は教祖と信者のそれに近い。

でもそれを「宗教」とは正確には言わない。あくまでも比喩なのである。でも比喩とはいっても宗教の儀式が起源であることには変わりない。近代化が進めば進むほど公式の宗教は非合理なものとして抑圧、または克服されていくのだが、実はその裏側で我々の日常生活の中に宗教的なコミュニケーションのあり方が定着している。

一神教の西欧と多神教のアジア、日本の近代化の過程は異なって当然だから、ライブハウスのあり方もおそらく少しは異なっているだろう。だけどほとんどの近代社会の制度やアイディアは西欧からやってきたわけだから、やっぱり大枠は変わらないはずだ。

しかし俺、文章下手だな。簡単な言葉で読み手に伝わる文章を目指してはいるが、論文調の癖がある。何とかしたい。

からこそ、インディー・ロック、ギター・ポップは「美しかった」のである。

子供と大人の中間にあって、家庭からも社会からも孤立している「若者」の音楽であったから「美しい」のだ。しかも「純粋さ」がとても痛々しく、悲しくもある。

小さなライブハウスで彼らインディーバンドのライブを体験して、その「美しさ」に共感したとしても、所詮ライブは「通過儀礼」であり、子供が大人へと変貌するにつれて、その「美しさ」は錆び果てる。つまり宝石と思えたものが「ゴミ」になる。

それは暗くて狭い空間に佇む観客だけではなく、華やかな舞台で演奏するパフォーマー達にさえ訪れる宿命だ。醜く老いぼれていくパフォーマーが儚い、だからこそ「美しかった」音楽を観客に届け続けることは難しい。観客たちも同時に歳をとっていくからだ。

「美しくなくなった」かつての偶像を目の当たりにする時こそが厳しい現実に直面させられる瞬間である。だからその瞬間を経験した多くのインディー・ファンはライブハウスを去ってゆく。大人になるのだ。通過儀礼の終了である。

大人の現実社会は、世界地図のどこにいるのかには関係なく、またキリスト教圏か仏教圏にも関係なく、プロテスタント倫理に裏打ちされた資本主義の世界である。現代の世界は「グローバルなもの」だからだ。すなわち、儚い「現在」にではなく不確かだが、だからこそ可能性の広がっている「未来」に投資する。プロテスタント倫理は未来の「幸福」を実現するために禁欲的であること、浪費しないこと、理性的であること、そしてなにより一生懸命労働することを我々に要求する。

汗水たらして働いて得たお金、神経をすり減らして稼いだお金、は「神」からの贈り物であり、したがって富を築くことと信仰は両立する。労働はこの倫理にとって「善」だからである。これこそがアメリカが世界を席巻することになった思想である。そうはいっても人間性を踏みにじるような「金儲け主義」は間違っている。「神」の意には添わない。(マックス・ウェーバー『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』を参照してくださいね。)

以上、風邪気味元インディー野郎の独り言でした。
これからもエッセイみたいなものを綴っていく予定です。
宜しく。


Wendy Fonarowが「あとがき」に書いて曰く、

My trick has been indie's trick --- that music and emotional epiphanies matter. If popular music is not worthy of study, then it's because it is not worthy. It's not worthy because it is ephemeral. It doesn't last. It is our trash. You can't see it in a museum in two thousand years. It is dirt. Do we not live in a world where it does not matter what sort of music you like? Does it matter if artists make music independently or under corporate auspices, extravagantly or modestly? Will it help you get a job? Will it feed your family? To the outsider, the emotional epiphanies of the indie comunity are as insignificant as documenting fleeting trains as they speed by your platform.   (p.249, Empire of Dirt: The Aesthetics and Rituals of British Indie Music, 2006)

わざわざ訳さないけど、もし「ポピュラー音楽が研究するに値しないのなら、そうだったらそれはポピュラー音楽に価値がないからだ」と書いている。はたしてそうなのかというと、そう「あとがき」で書いているFonarowさん自身が200ページを超えるこの研究書を書いているわけだから、答えは「研究に値する」である。でもそれが研究に値するのはポピュラー音楽が主張している「価値体系」が優れているからではなくて、その「価値体系」が一つの重要なイデオロギーとして社会全体の中で機能的に働いているからである。

この本はイギリスのインディー・ロックについて書かれた本だが、かつて、今でも少し、インディーファンであった自分にとっては、けっこうキツイ分析であったように思う。研究として優れているのは間違いないけど、なんというか教訓のようなものをこの本から受け取った自分がある。「現実」を見ろ、と何度も言われたような気がする。インディー・ロックの「美しさ」はまやかし、トリックであり、十中八九「ゴミ」("dirt")である、と。

タフな研究書である、この本は。

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