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イギリス・インディーズロックの最高傑作の一つ。

Josef K, 'It's kinda funny'。


もう何も言うことがありません。素晴らしすぎる。

間違いなくPVの映像はカフカの『審判』の映画版からの編集でしょう。

カフカ、ジョイス、プルースト、ベケット、ゴダール、タルコフスキー、トリュフォー、サルトル、ヴァレリー、コクトー。それにパンクロックとネオアコ。

これらが私の青春です。

結局俺、ヨーロッパのモダニズムが好きだったんだね。アート系一直線だった若い私。

ちょっと恥ずかしい!

エンジョイ!
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というのがビョークの中国公演。

ビョークの音楽はまあまあ好きだし、人間的にもシニード・オコナーと同じ危なさがあって嫌いじゃない。

まあみんな期待してんだよな、暴走することを。

でもまさか独立を鼓舞する歌を歌って「チベット、チベット」連呼した2週間くらいしてあんなことになるとは、ビョークも想像してなかったかもしれない。

アイスランド出身のビョークが主張する民族ナショナリズムはアパデュライ的にはどうなるのかな?

ミュージシャンの政治との係わりもやはりクローズアップされるはずだ。とくにアイルランドのボブ・ゲルドフ、U2のボノ、ことごとく「ヒューマニタリアニズム」、元オーストラリアのロックボーカリストにして現在環境大臣のピーター・ギャレット、この人なんか強力な捕鯨反対論者だ。

一言で言えば80年代に活躍したロック・ミュージシャンの典型的な政治スタンスがヒューマニタリアニズムと環境主義、またはフェミ環境主義である。

アパデュライの議論でも難民キャンプやNGO、アムネスティ・インターナショナルをトランス・ナショナルな新しい共同体の可能性として言及しているものの、国連の意義だとか、これらの団体の主流派をなしているヒューマニタリアニズムへ向けた議論がないのが残念だ。

領土ナショナリズムとそれに関連する主権関係論も必要かと・・・。

関係ないが、アイリッシュ・トラッドをフォークとロックのイディオムで再解釈したポール・ブラディーの音楽に戦慄をおぼえる。かっこいい!
Paul Brady, 'Nothing but the same old story'。

経済不調な頃(1950年代、1970年代)のアイルランドから大量にイギリスへと移民した人々の非熟練労働者が主題となっていて、泣きそうになる。

ポピュラー音楽ってそれぞれ思い入れのあるミュージシャンやジャンルがあるから人の文章読むとフラストレーションが残る。

アイルランド音楽といってもやはりアメリカへの移民の経験、イギリスによる植民地経験、飢饉の経験、これらが歴史的には重要な要素と言える。スコットランドからの移民、アメリカ、それからイギリスやオーストラリアなどへの移民。これらもディアスポラと言えなくはない。

とくにアイリッシュアメリカはやはり「アイルランド音楽」と言われるものの成立には不可欠の存在だ。

なるほどアフリカ系のレッドベリー(Huddie William Ledbetter)はアイリッシュトラッドとアフリカ系の音楽(ブルーズ)をつなぐ重要人物のようだ。
Leadberry, 'Pick a bale of cotton'。
http://www.youtube.com/watch?v=oE9QYkkxyVQ

ウッディー・ガスリー、ピート・シーガーとともに最初のフォークブームをアメリカにもたらした人物だ。

さてカルスタの方法論に沿って書かれた数少ない論文集Gerry Smythの’Noisy Island'。アイルランドのポピュラー音楽の「本物」(authenticity)を巡る政治に警笛を鳴らしながら、結局伝統系ではチーフタンズをダブリナーズより上位に置き、彼らとの係わりでロック界ではヴァン・モリソンをポーグスの上位に置いている。これも「本物」を巡る政治じゃないの、って思た。

もちろんスミスはソージャやアパデュライに倣って「本物」さの基準を空間的な「移動」を「世界における存在形態」としているのだが、移民のポーグスやアメリカのアイリッシュパンクだってそうじゃん、て思う。その差ってなんだい、ソフィスティケーションがあるかないか、という風にスミスの議論はどうしても読めてしまう。

さて「グローカル」を体現しているアイルランド出身のバンドとしてThe Saw Doctorsを強力にプッシュしているが、どうなんでしょ。俺には無理だ、ついていけんよ。
The Saw Doctors, 'N17'。
http://www.youtube.com/watch?v=CsFHfOLm2e0


最後に一言、
確定申告の計算式がまた変わって還付金がずいぶん減った気がするのは私だけか?いいかげんにしてほしい。

失礼しました、って感じです。

ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』原書を半分ほど読み終わった。

10年前イギリスから帰ってきたころにR大のK教授のゼミで部分的には読んでいたのだが、その時のK教授のことの方が印象が強い。それというのもやくざ風外見(光りもののスーツ、尖ったブーツ、巻いた後ろ髪)のこのK氏がラジカセとCDをゼミ室に持ってきたからだ。

2年前の退官だからお爺ちゃん先生だったのだが、アメリカ文学のゼミに似合わないモノを持ってきたもんだ、と思って見ていた。

それが何のCDだったか、思い出せないが、2 Live Crewとかギルロイが本書でとりあげていたラップグループだったと思う。

その当時、アメリカ文学ではトニ・モリソンやラルフ・エリクソンが流行り始めていた頃だった。私はただイギリスでピーター・ヒュームに学ばせてもらった、というだけでそのゼミに出ていたわけで、私の専門であるアイルランド文学(小説・詩)とはほとんど関係がなかった。

さてギルロイさんについて、

まず英語がクセがあって読みにくい。もともとイギリスの大学で教育を受けている人の文章とアメリカの大学で教育を受けた人の文章は明らかにアメリカ英語の方が読みやすい、つまりきわめて平均的な英語を書き、段落構成も明快である。ただそれだけの原因でギルロイの英語が読みにくいのではなくて、やっぱりポピュラー音楽への傾倒がそうさせるのではないか、と思った。

本書でも彼が時々使う「シンコペーション」(じつはよく知らない音楽用語だが・・・)、これではなかろうか?

ホントに日本語に訳するのは大変な作業だった、と思う。

さて今頃本気で読んでるのにはおそらく当時の私に英文学研究についての微かな執着があったからだ、と思う。ギルロイの本に西欧文学、またその批評・研究に対する決定的な最終通告が書かれている、予感があったからだ。

それは本書でテクスト性と物語という言説分析に基礎をおく(西欧白人の)「文学」に対して、ドラマツルギー、発声、身振り、といった前‐言説または反‐言説の分析にこそ基礎をおくべき、とするギルロイの主張に明快に表れている。

この前‐言説、反‐言説の性格を端的に持つ文化形態こそ(ポピュラー)「音楽」である、と。そこに大西洋を横断しつつ形成された黒人音楽の政治的な力が宿る。

けっこう強力な議論であり、私的にはやはり打ちのめされる。

音楽を中心に論じた第3章のパワフルさはやはり見事でした。とくに音楽と(民族的、または人種的)アイデンティティーの関係性を論じる箇所は説得力がある。黒人アイデンティティーを「自己の経験的な感覚」として肯定しながら、黒人本質主義者の政治からも、相対主義に陥りがちな反本質主義者の非政治的なスタンスからも身をかわす、その粘っこいギルロイの論法に「やっぱりこの人凄いわ」と思った。

「反‐反‐本質主義」という立場が可能なのかどうかには私は自信がないが・・・。

それにしても大西洋横断的な黒人音楽に疎いわ、自分。まあ好みじゃなくても聴きたくさせるのがギルロイなのかな?
と不安。

Peter Nyersの'Rethinking Refugees'を読了。アガンベンの「裸の生」と生政治論を中心に、デリダの「ホスピタリティー」の議論を絡め、最後にホーミ・バーバの言葉で締めるあたりほとんどカルスタじゃねえか、と思った。

バーバからの引用、
[The human is] to be identified not with a given essense, be it natural or supranatural, but with a practice, a task. The property of the human being is the collective or the transindividual construction of her or his individual autonomy: and the value of human agency arises from the fact that no one can be liberated by others, although no one can liberate herself or himself without others.

まあヒューマニズム(またヒューマニタリアニズム)の本質主義批判(「人間とは既定の本質ではない」)と「人間の行為性の価値」を救う側ではなくて、一般的に言って救われる側に認めること(「誰も他者によっては解放されえないが、他者なしには誰も自分を解放できない」)が主張されている。

ここから難民の声を「普遍的な人類の声」としてではなくて「政治的なもの」として尊重し、難民を巡る国際的な決定に主権国家やUNHCRのような国際機関だけではなく、難民そのものを参入させる必要を結論付けている。

また難民の「文化権」、文化活動(歌、音楽、絵画、その他)における自己表現にもっと目を向けるべきだ、という結論も伴う。ここにも政治と文化を分けないカルスタ的な視点がある。難民が突きつける事態に興味がある者は法律を学ぶだけではなく、音楽、小説、絵画、映画、テレビ、その他の文化表象を読み解く技術を身につけろ、と。

おおかた賛成である。カルスタのボキャブラリーが専門(法律や経済学など)を超えて共有される可能性、そのことでインターディシプリンが達成される可能性に私も期待する。

不安があるとすれば、Nyersの理論中心のスマートな国際関係論と私がアフリカで実感した「アフリカ」(口に合わない川魚、意外と多いロレックスをはめた人道主義者との遭遇、舗装のないガタガタ道を何時間も走ったこと、アフリカ現地人を下に見ている元ルワンダ難民)とすんなり合致しないことである。

まあ理論バブルが一段落してからかな。

関係者が崇拝している元UNHCRトップの緒方貞子をマイクロソフトのグローバル戦略に易々と乗っかってしまったことで批判するNyersは正しい。「デジタル格差」を無くせば「人類」という普遍的なコミュニティーが達成される、と主張することぐらい愚かなことはないからね。

おっと書き忘れるところだったが、

もしNyersが主張するように難民を巡るUNHCRのような国際機関のヒューマニタリアニズムの原点が19世紀イギリスに始まる動物虐待反対のエートスにあるとすれば(捕鯨に反対する過激な活動家を想起するとそうだと思えるが)、まさに「難民」は動物(とくに絶滅の危機が疑われている動物など)の等価として表象される可能性が大きいということになる。

ここでもデリダの動物/人間という形而上学的な二項対立を「脱構築」するというモチーフの重要性がある。

でも期待を込めて言えばアフリカにはゴリラを研究しに来る自然科学系の学者もいっぱいいるわけだから、カルスタは自然科学もカバーしなければいけなくなるだろう。

そうすれば自然科学者と文化研究者、社会科学者が一つの席について議論が交わせることになる。

でも「専門」の壁は厚いと思うね、まだまだ。
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