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William Butler Yeats, ‘A Drunken Man’s Praise of Sobriety’
 
Come swish around my pretty punk
And keep me dancing still
That I may stay a sober man
Although I drink my fill.
Sobriety is a jewel
That I do much adore;
And therefore keep me dancing
Though drunkards lie and snore.
O mind your feet, O mind your feet,
Keep dancing like a wave,
And under every dancer
A dead man in his grave.
No ups and downs, my Pretty,
A mermaid, not a punk;
A drunkard is a dead man
And all dead men are drunk.   
                           (italics mine)
 
酔っ払いがしらふを誉めそやす歌
 
衣擦れ音をたてて周りにおいで、私の可愛いろくでなし
そして私がまだ踊れるようにしておくれ、
私は思う存分酒を飲むけれど、そうすれば
しらふの男でいられるかもしれない。
節制は私が大いに崇敬する
宝石である、
それだから飲んだくれは横たわって、鼾をかくものだけど
私に踊り続けさせておくれ。
ああ足元に気をつけて、ああ足元に気をつけて、
波のように踊り続けてくれ、
それに踊り子の足の下には
墓の中で眠る死者がいる。
そんなに上下に体を揺すってはいけないよ,私の可愛い娘
君はろくでなしじゃなくて人魚だ
酔っ払いは死んだ者であり
そして死者の全ては酔っ払っている。

エルヴィス・コステロが2002年に発表したアルバム Brutal Youth には詩人W.B.イエーツの「酔っ払いがしらふを讃える歌」(上記のもの)がボーナストラックとして入っている。コステロが曲をつけて歌っているのだが、出来が素晴らしい。一分にも満たない曲なのだが、何故コステロがイエーツの詩全体からわざわざこの詩を選んだのかは一目瞭然、この詩が「パンク」("punk")という言葉を含んでいるからである。コステロがデビューしたのはパンク勃興の時代だったことを思えば不思議はないのだが、音楽スタイルこそ違ってもやはりパンクロックはコステロにとっても刺激的な事件だったのだ。コステロもアイルランド系のイギリス人であって、イエーツに自分の故郷を投影したのかもしれない。「パンク」と「酔っ払い」("drunk") の押韻がなんともかわいいイエーツの詩だが、「酔っ払いパンク」としてシェイン・マッガワン(ポーグスのボーカリスト)のことをコステロは思い出したのかもしれない。どちらにしても「パンク」の意味違い、「ろくでなし」(一種の愛情表現)とサブカルの「パンク」なのだが、そんなの関係ないくらいシャレた消費文化による文学のアダプテーションではなかろうか。
 
ところで私の訳だが、「ろくでなし」としたところはあまり気に入ってない。もっといい日本語がないものか、と思う。「あばずれ」としようかと思ったが、ちょっとねえ。"punk"という言葉はOEDに拠れば1600年ごろに初めて英語で書かれており、そのときの意味は「売春婦」の意味であったから、あながち「あばずれ」も的外れな訳ではないと思うが・・・。それにしてもイエーツのポーズはかっこつけすぎ。
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さて再びロック・ミュージシャンによるジョイスのアダプテーション。

ジョイスが音楽好きであったことは有名であるが、どんな曲を演奏しているかは不明。さてその下の写真は80年代ニューウェーヴを代表するバンドThe Go-Betweensのシンガーの一人Robert Forster。その彼のソロアルバム(実はこれ聴いてない)。もう一人のシンガーGrant McLennanは今年春に他界しているが、二人で交互に歌っていたようだ。それにしてもよく似ている。ジョイスはロックミュージシャンに大変人気あるのが分かる。おそらく20世紀で最も重要な小説はと聞かれれば、間違いなくジョイスの『ユリシーズ』であろうことは誰も否定しまいが、彼の存在自体が一種の「神」。

しかし誰でもジョイスになれるよ、というのが大衆消費文化の論理なんですよ、これが。

「ゲッツ」のダンディーではもちろんない。

歴史上の「ダンディー」(dandy)についての研究書は大変少ないものの、一般に我々が生きている消費社会で文学に出会うのは読書を通してというよりもライフスタイルの偉大な先輩としてである。我々は過去の詩人、小説家、画家などに雑誌の特集記事などを通して出会う。夏目漱石などの近代の文人たちもまたダンディーの見本として、時に「メランコリー」のポーズとともに雑誌に採りあげられることが多い。小説や詩が詳細に論じられることはなく、文人の生き方そのもの、その審美的なファッション感覚や特異な立ち居振る舞いが大衆紙では感嘆の対象となっている。もちろん作品の価値を云々する文芸誌はあるにはあるが、専門家を含めた一部の者にしか読まれておらず、敷居が高い。

歴史的なダンディーとしては「伊達男ブランメル」 "Beau Brummell" とオスカーワイルド、ダンディーを論じてもいるフランスの詩人ボードレールを挙げれば十分であろうか。詳しくはWikipediaを参照。

http://en.wikipedia.org/wiki/Dandy

消費社会でいかに文学(というより文人)が記号として社会に発信されているかの例。

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上の写真はジェームズ・ジョイスの晩年のものだが、山高帽、ステッキ、左手のもたれ方、視線の方向、など当時の写真撮影の制約や要望というものがあっただろうが、ジョイスの「スタイル」はやはり20世紀初頭を生きていた芸術家に特有なダンディーである。ポーグス(The Pogues)は言わずと知れたパンクとアイルランド伝統音楽をミックスしたバンドであり、アイルランドのみならず世界のポピュラー音楽においても重要なグループである。ポーグスはロンドン生まれのアイルランド移民たちが作ったバンドであり、彼らの祖国アイルランドに思いをはせてジョイスに至ったのであろう。この一枚はシングルで、ジョイスの短編集『ダブリン市民』に収録されている「恩寵」('Grace') に引っ掛けて書かれた曲のようだ。「引っ掛けて」というのはちょっと意地悪な言い方であるが、彼らがジョイスの文学作品を好んで読んでいたとしても、この曲、この歌はいわゆる「文学」には属さないからである。ジャケットのコラージュが示すように、ポピュラー消費文化はまずもって芸術家や文人のダンディズムこそ採り入れる。等身大の人間ジョイスというよりも視覚的な記号としてのジョイスに意味があるのである。

大方19世紀末から20世紀初頭のモダニストたちに特有なダンディズムは新興中産階級(商人、銀行家、株取引に係わる者たち)への嫌悪、群集(mob)としての「大衆」からの自らの差異化、そういった表現になっていたと思う。つまり社会に頓着しない超然とした姿勢、生き方。それを大衆消費文化は誰にでも実践できるようにマニュアル化し、雑誌で特集などして世に広めた。

「ヘミングウェイという生き方」なんてのはよくある特集記事だ。

芸術をではなく、芸術家のスタイルを模倣する、それが多くの場合、つまり文化資本の少ない家庭に生まれた人たちが文学や美術、つまり芸術と出会う出会い方である。それがいいことかどうかは分からないが、そうなのだ。本気で文学に向き合うことになった私などは超マイノリティー。でも入り口はジョイスやコクトー、ボードレールの「かっこよさ」だった。

日本アイルランド協会全国大会が滋賀大学で先週の土・日にあった。私は日曜日に発表させてもらった。あんまり大声では言えないのだが、7月に「カルタイ」で発表したものをもう少し文学色を強くして、極力むずかしい理論は省くつもりであった。聴衆の中にいわゆる「文化研究」者はほとんどいない、と判断したからだった。この学会の主力は歴史学と文学であり、とくにここの文学研究者にはイエーツ、ヒーニー、等の現代詩研究者が多い。私自身ジョイス研究以来、現代詩研究に従事していた。さて、そういうわけで「パンク」を含めたサブカルの説明は手短に済ませるつもりだったのだが、やっぱり引っ掛かってしまった。私は「パンク」を記号論のレヴェルにおいては価値があるものの、文学言語としては価値がないことを認めざるをえなかったわけであるが、記号論の(手短な)導入は聴衆を少々混乱させたようだ。私としては文化産業の論理として、言語の使用がなされる場合でも、作家の意図に根拠を置いたり文学の伝統をその価値の源泉としたりせず、言語の記号的な論理が優先される、と言いたかったわけである。もちろん、文学の論理を言語とし、市場の論理を記号とすることには議論を分かり易くする意図が私にあったからだが、この二項対立に絶対的な自信があったわけではない。

(文化)市場の論理を記号として提出するためにマスメディアの媒介性を強調することになったのだが、今回新しく補完した議論は、

サブカルチャーの一つの源泉として、18世紀末から20世紀20年代くらいまでの「ダンディー」に言及した(とくにオスカー・ワイルド)。

パンクの先駆者として「ダダ」に言及した(その神聖冒涜的な言動、作品など)。

この発表をするまで忘れかけていたのだが、というかDick Hebdigeを読み直して思い出したのだが、文学と社会学を軽やかに行ったり来たりして一世を風靡した批評家にロラン・バルトがいた。文学研究においては80年代、90年代初頭までは記号論は有力な研究方法論の一つだったはずだが、大方それ以降は消えていった。代わりに社会学のメディア論やカルスタが記号論を継続していった、と思う。現在は再び文学と社会学メディア論は別々の道を歩んでいるように私には見える。

さてバルトの小論集『記号学の冒険』を15年くらいぶりに手に取った。文学と社会学をどうやって軽やかに行ったり来たりできたのか確かめたくなったからである。ジョイスとセックス・ピストルズを同時に論じることは本当に可能なのか、文学と消費文化はどう出会えばいいのか、そういうことだ。

「広告のメッセージ」

バルトはこの小論で広告の論理を言葉の簡単な分析を通して明らかにしようとしているのだが、彼が挙げている例を見てみよう。

「ジュルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」

ジュルヴェはフランスの食品メーカーのブランド名らしいが、これは広告の宣伝文句(つまりコピー)。バルトはこの宣伝文句にはメッセージが二重化されている、という。一つは字義通りのメッセージであり、「ある種のアイスクリームの摂取が、おいしさの効果によってまちがいなく全身の溶解を引き起こす」である。この場合記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)はメッセージの元で齟齬がなく、「あらゆる言語活動が<翻訳する>ものとされている現実との関連において」外示のメッセージとして機能している。というか、この宣伝文句のメッセージこそが記号内容(シニフィエ)である。

ところが当然であるが、我々はこの宣伝文句を上のように文字通りに理解しはしない。さてバルトは上の第一のメッセージとは関連はしているが別の論理で、「ジュルヴェはアイスクリームのうちで最高である」という第二のメッセージに苦もなく到達するという。それをバルトは「共示」(コノテーション)のメッセージと呼ぶ。つまり広告の言語はどの商品を売るにしても同じ一つのことしかメッセージとして持っていないということ。「この商品を買ってください」である。バルトは第二のメッセージは第一のメッセージ(シニフィアンとシニフィエの結合体)を記号表現として成り立つという。したがって「ジュルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」はそれ自体がシニフィアンとなり、「ジュルヴェはアイスクリームのうちで最高である」というシニフィエがメッセージとして読み手に伝わるわけである。

要するにバルトはどのような記号内容(シニフィエ)も記号表現(シニフィアン)に転化しないものはない、と主張してシニフィエを構成しがちな普遍的な理念を相対化する。したがって記号表現の論理をこそ研究すべきである、と。しかしちょっと待て、そうなると「この商品を買ってください」というのが唯一ではないにしても最強のシニフィエということになるんじゃないかな。それが資本主義の世界に生きる我々の宿命か?


第一のメッセージは、第二のメッセージの打算的な目的性、その主張の根拠のなさ、その威嚇的説得のぎこちなさを取りのぞく。平凡な勧誘(買ってください)のかわりに、アストラやジュルヴェを買うのが自然であるような世界を見せる。かくして商業的な動機づけが、はるかに豊かな表象によって、覆い隠されるのではなく、裏打ちされるのである。というのも、その表象は読み手を、人類の大きな諸テーマ、つまりいつの時代にも快楽を人間存在の完全溶解になぞらえ、ある対象のすばらしさを黄金の純粋さになぞらえてきた人類の諸テーマそのものに参加させるからである。広告の共示的な言語活動は、その二重性のメッセージによって、買い手の人間に夢をとりもどさせる。夢は、なるほど、ある種の疎外(競争社会がもたらす疎外)であるかもしれぬが、しかしまた夢は、ある種の真実(詩の真実)でもあるのだ。   『記号学の冒険』(p. 74-75)

少々あまりにも無邪気にバルトの言葉は響いてしまうのだが、私が気になるのはやはり広告が消費者に提供する「夢」が「詩の真実」なのかどうかである。バルトはフランスを代表する象徴派の詩人マラルメなどについても文章を書いていたはずだから、なにがしかの答えは持っていたのかもしれない。現代詩を読むことの困難さや、それがための訓練の必要を思えば、おいそれと広告が与えてくれる「夢」と詩の真実が同じものとは私には考えられない。でもまあ彼の文学論も読み返してみてからでもいいかな、バルトが楽観的過ぎるのかどうかを決定するのは。

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今年のカルチュラル・タイフーンでも報告した北アイルランドの作家 Tara West の小説 Fodder 。そのタイトルの意味に対する注記。以下に主だった英語辞書から列挙してみる。

fodder  n. (Oxford English Dictionary)

  1. Food in general.
  2. Food for cattle. Now in a more restricted sense: Dried food, as hay, straw, etc., for stall-feeding
  3. Child, offspring

fodder  n. (The American Heritage Dictionary) 

  1. Feed for livestock, especially coarsely chopped hay or straw.
  2. Raw material, as for artistic creation.
  3. A consumable, often inferior item or resource that is in demand and usually abundant supply: romantic novels intended as fodder for the pulp fiction market.

 fother [rhymes with "bother"] n. fodder (Concise Ulster Dictionary)

さてウエストの小説のタイトルにふさわしい意味はどれかというと正直難しい。どの定義にも当てはまりそうだからである。したがって翻訳不能(「フォダー」とするしかない)なのだ。私はこの小説を「パンク小説」と呼ぶことにしているが、それというのも北アイルランドで The Undertones と並ぶ伝説のパンクバンド、スティッフ・リットル・フィンガーズ(Stiff Little Fingers) がきっかけで書かれた小説であることは間違いないからである。したがって上記の定義でいくとアメリカン・ヘリテージの3)「消費可能な、しばしば劣った品物または資源」というのがまず該当する。パンクロックはその反体制的な姿勢(これは神話だ!)にもかかわらず大衆消費財(安全ピンその他)を利用することでそのスタイルを確立したからであり、音楽自体が消費文化であることを免れないからである。つまりウエストはパンク小説というか「パルプフィクション」を狙っているのである。

しかし一方でやはりアメリカン・ヘリテージの2)「原材料、例えば芸術的な創造に対する」も無視できない。この小説を「パルプフィクション」であると同時に「文学」と看做せるかどうかは議論の余地が残るところだが、私の文学研究経験からすればやはりこの小説は文学なのである。実際北アイルランドの大学でも文学の授業で採りあげられていると聞いている。また作家ウエストに「文学」への自負があることも疑えない。何故なら "fodder" は北アイルランドを代表する詩人シェイマス・ヒーニー(Seamus Heaney) の出世作『冬を生き抜く』(Wintering Out) の冒頭に置かれた作品だからである。ウエストの小説にもそれと窺わせるヒーニーへの言及がある。


I had a couple of volumes of Seamus Heaney and Martin Mooney — mostly nicked from No Alibis bookshop on Botanic, where they wouldn't let me in any more.  (p.103)

マーティン・ムーニーはまだまだ若手の北アイルランド詩人であるが、どちらにしても小説の主人公「クッキー」はボタニックというベルファーストの地区にある本屋「言い訳なし」からヒーニーの詩集を盗んでいるのである。さてではそのヒーニー自身の作品「フォダー」を眺めてみよう。


Fodder
 
Or, as we said,
fother, I open
my arms for it
again. But first
 
to draw from the tight
vise of a stack
the weathered eaves
of the stack itself
 
falling at your feet,
last summer’s tumbled
swathes of grass
and meadowsweet
 
multiple as loaves
and fishes, a bundle
tossed over half-doors
or into mucky gaps.
 
These long nights
I would pull hay
for comfort, anything
to bed the stall.
 (from Wintering Out, 3)

飼葉

それとも 僕ら流に言えば
<まぐさ>
僕はまたそいつを取ろうと
両腕をひろげる だが まず

万力で締められたような
干草の山からよく乾いて
軒のように突き出たまぐさを
引っ張ろうとすると

足元にバラバラとこぼれて落ちた
この夏に刈って
束ねて転がしておいた
牧草やシモツケソウ

まるであのパンや魚のように
ふんだんにある
半扉越しというか 汚れた仕切りのなかに
投げ込まれたひと束

いつまでも続くこんな長い夜には
牛小屋を少しでも寝心地よくするために
干し草を布団代わりにして
引っかぶりたいものだ

(『シェイマス・ヒーニー全詩集』村田辰夫その他訳、国文社)


もちろん詩と小説ではジャンルが違うから影響云々ということは問題外である。だが少なくともウエストがヒーニーを意識というか揶揄していることは明白である。面白いのは片やノーベル文学賞受賞のヒーニーの作品「飼葉」に対してウエストがパルプフィクション『フォダー』で対抗していることだろう。そうなると「安ぴかもの」もしくは「ジャンクフード」くらいにタイトルを訳してもいいかもしれない。もちろんヒーニーの "fodder" の場合はOEDの1)と2)、アメリカン・ヘリテージの2)、アルスターの "fother" が該当している。「飼葉」は牛の飼料であるけれども、文学創造の「資料」でもあり、したがってヒーニーの詩人としてのマニフェストのような作品なのである。アルスターの自然物を飼料/資料にして文学作品を創造していくという宣言として。ウエストは対照的に北アイルランド大衆消費社会のジャンク(食品、文化、ロック)を飼料/資料にして小説を書く、ということを宣言しているのだ。
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